For an Oath -Ⅱ
For an Oath - Ⅱ( 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 )
*
メアの主精霊は、闇と空間を司る。
普通、地域の主精霊は1つだ。しかし、メアには2つだった。『神の石』があるためだと言われているが、詳細は分からない。
主精霊の名は、その地域のリーダー、つまり王族の真名の一部となるため、王族にしか明かされない。
その2つのうち、1つの名を、アイカは知った。いや、知っていた。
(イネイン…)
部屋の中、アイカは小さなテーブルに肘をつき、組んだ両手を額に着けていた。目を閉じて動かないその様は、まるで祈っているようだった。
イネイン。その者の気配を、アイカは感じることができる。魔法は不得手だが、精霊には何度も語りかけていた。『盾』の尊敬すべき仲間たちは、精霊の力を借りて魔法を行うことがよくある。アイカはそれに憧れていた。なにより、単純に興味があった。
自分と共に生まれた、または、両親から受け継いだ、精霊。実際には、それが主精霊であったとようやく分かった。唯一、自分をどこか遠い家族と結びつける存在。
その名の意味も知っていた。その意味まで込めて呼ぶと、その者は、アイカと近くなる。そんな気配がする。
「《空虚を見出す者》イネイン…」
アイカは続けた。
(私は貴方の名と意味だけ知っていた。そして、昨日、もっと知ったよ。イネイン。そうだったんだね、貴方が、この国を守る精霊で、私の…お父さんと、お母さんと約束をした精霊だったんだね。私のことを、ずっと知っていてくれたんだね)
今は亡き王と、悪魔と契約した王妃を思って、アイカは訊ねた。
(きっと約束を破ってしまったよね。ごめんなさい)
あまり強い気配はなかった。ただ静かに、続きの言葉を待たれている気がした。
アイカはすっと目を開いた。組んだ手に力が込もる。
「貴方たちが居るこの地域。私たちの大切な国。
守るからね」
そこまでで、気持ちは収まらなかった。終わろうとした言葉だったが、続けてアイカは呟く。
「守るよ。…。だけど、約束を破っても、あの人は、あの人たちは、私の…私たちの、お父さんとお母さんだから…嫌いにならなくってもいいよね?」
それでは逆に辛いのではないか?辛いのならば、嫌いになってもいいのだ…約束を受け継ごうとするのならなおさら、せめてこの戦いの間だけでも。
――そんな考えが、ふとアイカの心に忍び込んだ。
アイカは首を小さく振った。自分の考えなのか、はたまたイネインが初めて話しかけてくれたのか、分からないが…。
「嫌いになれないよ。嫌いになるほど、知らないの。
それに、私もエドも生まれたし、生きてる。嫌いになれないよ…。
私が言いたいのはね、イネイン。
それでもいい? 約束を破った人たちを好きなまんまでも、いい? それでも、私と一緒に生きてくれる?」
イネイン。これまでずっと、生まれてからずっと一緒にいた精霊。声も姿も知らない、一番身近なもの。心の底から呼びかけた。
すると、その一瞬、世界が変わった気がした。世界にはその者とアイカしかいない、そんな気がした。よく知っているが初めて会うその者の目とアイカの目が合った、気がした。その者は、頼もしく、優しく、短く言った。
「もちろん。アルフェリアの娘、フェリシアよ」
はっとアイカは顔を上げた。
部屋の壁が、優しい色合いでそこにあるだけだった。
自分の真名を、自分の胸の内以外で聞いたのは初めてのことだった。フェリシア・アルフェリア・イネイン。
もう一度聞こえないかと耳を澄ませた。しばらくそうしていて、気がつく。
耳を澄ませても、聞こえるはずがないのだ。先ほど聞こえたそれは、肉声ではなかった。思い返してみるとそんな気がする。
目を閉じて集中する。
(貴方がそう言ってくれるのならば、もう一つ、お願いしたいことがある)
イネイン、《空虚を見出す者》。その名をもう一度呼ぶ。
しかし、気配はするものの、先ほどのようにはいかなかった。しばらくそうしていたが、アイカはやがて、はあっ、と言って大きく伸びをした。
「簡単にできることじゃないもんね」
笑ってごまかしてみた。その笑みはすぐに薄らいで消える。
こんな状況でなければ、ゆっくり時間をかけて仲良くなろうと思えただろう。
もうひとつ息をついて、考えるともなしにアイカは思う。
(イネイン、どうすればいい? 私、空間魔法なんて全然できないけど、貴方は空間を司る精霊でしょ? テレポートができれば、色々、攻めやすくなるんじゃないかな…エドが、城の中や近くでテレポートできないって言ってた…あれ、どうにかならないのかな)
出来るよ、と、聞こえたような聞こえなかったような…アイカには、自分の願望がそうさせたのか、本当にイネインがそう言ったのか、分からなかった。
*
精鋭部隊の集いが終わると、エドワードとアイリーンはティラの迎えで、アイカの居る拠点へ戻った。この日は精鋭部隊の話し合いしか予定はなかったが、帰る頃にはオレンジがかってきた光が街を照らしていた。
精鋭部隊は、それぞれ個性があるメンバーだったが、個人の力が非常に大きく、また、協調性も問題なかった。初対面だったにも関わらず、今日一日でお互いのことを分かりあった彼らに不安は感じられなかった。
帰路についたエドワードの心には、別のことが引っかかっていた。
アイカには、昨夜以来会っていなかった。
普段通り「おはよう」と言おうと心に決めていたのに、アイカは部屋から出てこず、話し合いの時間になってしまったのだ。
ただいま、と普通に言おう――考えるともなしに考えて、エドワードは構えていた。
だから、ティラに続いて扉をくぐったと同時にアイカと目が合ってしまって、エドワードの思考は停止してしまった。
「お帰りなさい!」
ただ今戻りました、と応えたティラに続いて、エドワードも短く答える。
「レイキさんはまだ買い物ですか?」
「はい。もうすぐ戻ると思うんですけど…」
ティラと話すアイカの様子は普段通りで、昨夜のことが夢だったのではないかと思えた。
だがたしかにエドワードは昨夜、アイカに話した。
アイカは何を考えただろうか。戦いから身を引かないのだろうか。この状況に嘆かないのだろうか。そのような段階は一晩で過ぎて、今は冷静なのだろうか。
結局、何一つ変わった様子はなく時間は過ぎていった。
アイカが早々に部屋に戻ってしまったので、何もできないまま、何もないまま、しばらく後にエドワードも部屋に戻った。ベッドに座り、やがて倒れ込んだ。
明日は…再びロード達が集う話し合いがある。
精鋭部隊が決定し、今度は作戦を詰めるのだ。
個人的なことで思考を遮るようなこと、あってはならない。城を一番知っているのはエドワードだ。
目を閉じて自分に言い聞かせていたその時、ノックの音がした。エドワードは飛び起きて、急いでドアを開けた。
思っていた通り、アイカがいた。
「疲れているのにごめんなさい」
第一声はそれだった。
「…いや」
短く答えたエドワードに、アイカは少し微笑んでみせた。
「少し話しませんか?」
「…うむ」
エドワードの部屋で、アイカは椅子に座って、エドワードはベッドに腰掛けた。
「精霊のことなんだけど」
アイカはさっくりと、真剣な表情でそう切り出した。
予想外の始まりで、エドワードは、ああ、とだけしか返せない。
「私の精霊はイネインで、その意味が《空虚を見出す者》なの。だから、空間系の魔法が強い精霊で…ええと…テレポートが、城の近くで使えたら戦いやすくなるんじゃないかなって思うんだけど、まだそこまで出来なくて」
言葉を探すアイカを、エドワードは内心戸惑いながら見つめた。精霊?親とか、悪魔とか、色々、もっと気になることはあっただろうに。だが、アイカが聞きたいことに応えよう――エドワードは精霊のことを考えた。
「私の精霊は…《太陰を象る者》リュンヌ。イネインと同じく、メアの主精霊だ」
うん、とアイカは頷き、エドワードの言葉を待つ。
きっとアイカは、イネインに力を貸してもらいたいが方法が分からず、同じくメアの主精霊の名をもつであろうエドワードに助言を求めてきたのだ。
昨夜あんな話を聞いたばかりなのに、戦いのことを考えている――エドワードはアイカを見直すと同時に、心配になった。無意識に無理をしているのではないか? まだ心の中は整理がついていないかもしれない。それでも現実的に、行動している。
「…リュンヌのことは、ずっと前から…幼少の頃から知っていた。母上が悪魔と契約していると知ったのも、リュンヌのおかげだと思う」
「エドは、その、リュンヌ、を呼び出したり、力を貸してもらったり出来るの?」
いや、とエドワード。
「私のほうから助けを求めることはなかった」
だが、リュンヌは助けてくれていた…エドワードは心の中だけで付け足した。城の外に出てから、リュンヌのことも考えたことがあった。あの城で、アイカを逃がすなど行動できた理由。アイリーンの存在も大きかったが、彼女がいなくなった後は…。
リュンヌには、ずっと助けられてきた。王族だから? リュンヌが助けてくれた理由は、それだけではない気がしていた。メアという国のある地域を守り、『神の石』を守ると約束したのは王族だ。しかし、精霊は王族を見限って、別の人を新たに選ぶことだって出来るはずだ。
それでも、ずっと守られてきた。
今度はエドワードが、国や約束を守る番だった。
「リュンヌは、ずっと私を助けてくれている」
エドワードの心にあったのは、王族として約束を果たすことだけではなかった。個人としての、リュンヌへの感謝や、愛情が、暖かく言葉に滲んだ。
「私は、リュンヌに恥じない人物になりたい。この国を守っていきたい。
だから、アイカ。私はリュンヌに、力を貸してほしいと、頼むことにする」
エドワードの突然の宣言に、アイカは目をぱちくりした。それから、エドワードの暖かい言葉に微笑み返した。
「じゃあ、精霊魔法の大先輩のところに行ってみる?」
「なるほど、それで私のところへ来たんですね」
『琥珀の盾』エルフの魔法使い、セルが、二人を迎えた。
他の拠点にはできるだけ行き来すべきではないが、事情を聴いてセルは頷いた。
セルの拠点は、セルとリオナ二人の家だ。アイカはそこを知っていた。セルは、話し合いに参加していたからエドワードのことを知っているうえ、アイカの生まれのことや精霊についての情報を明かしても大丈夫な人物だ。『琥珀の盾』を創立した一人であり、最高の回復術士。なにより、アイカはセルを信頼していた。
「夜遅くにごめんなさい」
すまなそうにするアイカに、かまいませんよ、と、全く気にしていないふうにセルは応える。
もう一人、この拠点のウィザードであるリオナがお茶を運んできた。ほっと安心する香りの紅茶だ。
「ゆっくり会える時間で良かった。うちで育てたカモミールの紅茶です。お召し上がりください」
大人の女性の低めな声。この盲目の魔法使いリオナはアイカより少し年上らしかった。少ししか違わないはずだが、ちょっとした言動や気遣いなどから、経験の違いを感じることがあった。
リオナとセルは互いにちらっと微笑みあって、リオナは席を外した。
セルは真剣な眼差しでアイカにたずねた。
「アイカさんは、精霊と通じ合い、空間移動を習得したい、ということですね?」
「はい。イ…私の…ええと、メアの主精霊の、空間を司る精霊の名前を、私はもっています」
”私の精霊”と言うのは気が引けた。まだ通じ合えていないし、なによりメアの主精霊だ。アイカがいくら愛しても、個人の精霊にはなりえないだろう。
「城内に直接テレポートすることも出来るかもしれません」
セルはテーブルの上で指を組んで、逡巡した。
「空間移動は…目に見える範囲ならともかく、長距離となると、術者も必ず同行することになります。一度行ったことのある《転移先》があるなら話は別ですが、今回はそれがありません」
珍しく、セルの顔には微笑がなかった。アイカの知っている、『琥珀の盾』のセルは、最高のヒーラーで、優しくて、いっつもにこにこしていて、たまに、少しだけ頼りなく見えて、でもとても頼りになるし頼りやすい、そんな人だ。
セルは今、アイカのことを考えて真剣に問いかけてくれいてる。空間移動を習得し、城内へ空間移動ができるようになれば、当然アイカも精鋭部隊とともに城内へ入る事になる。アルフェと会えば、アルフェを討つために戦う可能性が高い。
アイカは頷いた。
「はい」
セルが優しいことは分かっていた。それなのに、アイカは黒い気持ちが渦巻くのを感じた。
――だから、どうすればいいの?
心の底に、そう叫びたい衝動があることにアイカは気づいた。それは本当に深く深くにあるもので、今のアイカからは遠い遠い場所にある。
(私は最善を尽くすしかないでしょ?私は、ここを、この国を、失くしたくないんだから)
「…これは、私にしかできないことです。戦いでは戦力外だろうと思っていましたけど、これなら、私も役に立てますよね。私もみんなと一緒です。守りたいんです」
エルミオのことも。エドワードのことも。アイカを守り続けてくれた全ての人を。それは確かに本当の気持ちだった。どんなに暗くて疲れきった心がその下に隠れていても、本物ではあった。
セルはやがて微笑んだ。
「私もお力添えさせて頂きます」
いつもよりよそよししい言い方だったが、セルが心からアイカの力になりたいと思っているのが分かった。優しく、かつ、頼もしかった。アイカは少しだけ心が安らぐのを感じた。
「精霊と通じ合う方法には」
セルの言葉に、アイカとエドワードは頷く。
「定まったやり方がありませんから、ちょっとした…コツをお話することしかできません。それでもいいですか?」
「はい、お願いします!」
「お願いします」
二人そろって真剣な表情でお願いすると、セルは頷いた。
「お二人の精霊は地域の主精霊ですので、少し勝手が違うのかも知れません。ですが、一番大切なところは同じはずです。
今、私の話を聴こうと注意を向けていますね。私がここにいて、あなたたちに声をかける。お二人はそれを無意識に信じきっています。
精霊は目に見えないことがほとんどですが、今ここにいる私と同じように、確かに居て、あなたたちに語りかけることだってあります。それを知って信じていなければ、声は聞こえないし、気配も感じない。
存在を信じること。これがまず、最低限必要なことです。
お二人は、これまで、精霊の気配を感じたことがありますか?」
アイカもエドワードも迷わず頷く。セルは微笑んだ。ほっとしたようにも見えた。
「一番の難関はもう突破しているようです。あとは、人に対する時と同じですよ。彼らに歩み寄る努力をすることです」
内容がふわっとしたものになった。セルは解説する気がないのか黙って二人を見ている。それぞれ考えるしかなかった。
「今、やってみてもいいですか?」
神妙な面持ちでたずねたエドワード。セルは穏やかに、どうぞ、と応える。
エドワードは《太陰を象るもの》リュンヌ、アイカは《空虚を見出すもの》イネインの名を、心の中で呼ぶ。
アイカは、イネインの声が聴こえたあのときのことを思い出した。イネインは、十分に、アイカに歩み寄ってくれている。アイカはそう感じた。優しい人…精霊なのだ。戦いのこともあるが、なにより、イネインという精霊を知りたかった。
無意識に微笑んで、アイカはイネインに言った。
(私のことは、聴いてくれたね。あなたのことも、聴きたいです)
気配がした。イネインがいる。ここまでは、これまでも出来ていたことだ。
「フェリシア。あなたは私自体を愛するのだね。この先のことは考えているのかい?」
アイカは、自分が心を閉じそうになったのを自覚して、どうにか応えようとした。
(私は…今は、まず戦いを終わらせて…)
いろんなことが心に浮かんできて、大暴れしそうな感情を閉じ込めた蓋をどうにか抑えようとした。
「大丈夫」
イネインが、その蓋をすっと押さえて、アイカを心ごと撫でるように、優しいイメージをくれた。
「意地悪な質問をした。
これまであなたが私に語りかけ、声に耳を傾けてくれていたことを知っている。『セル』の言ったことを、あなたはもう随分前からやっていた。
私は、あなたが然るべき人物から真実を得て、あなたが本当に私とともに生きる道を選ぶまでは、深く関わるまいとしていた。
大丈夫、恐れなくても、時がくれば、先のことは分かる。
今あなたがしたいことは、この地域の精霊として私も協力すべきことだ。
私とあなたで、ある程度なら、あの城で空間を操ることができる。フェリシア、あなたに、力を貸そう」
繋がって、ひとつになった――そんな感覚だった。
これまで、イネインの気配を感じ、そこにいると思っていた。今は違った。アイカとイネインは、こことあそこにいるのではなく、ここに二人で一緒にいるのだ。不思議な感覚だが、そうなのだった。
同時に、完全にひとつになったわけではないのだ、ということも分かった。一部が繋がっただけだ。イネインの全てを感じるわけではない。変な例えだが、ぎゅっと抱き合ったのではなく、手を繋いだだけだ、と分かるような感じだ。
確かなその繋がりを、ぎゅうっと抱きしめるように、アイカは手を胸の前で組んだ。
家族や真実との唯一の繋がり。それは、優しい精霊だった。この戦いで、アイカは独りではない。涙が出そうになったが、その前に現実に戻ってきた。
横にはエドワードがいて、前にはセルがいて、紅茶がいい香りを放っている。
ぎゅっと組んでいた手を解いて、セルを見、笑みを零した。
「会えました」
セルは頷いた。
「そうですか」
「力を貸してくれます」
微笑みあった。
「心強いことです」
程なく、エドワードが戻ってきた。エドワードは小さく息をついて、ふっとセルを見た。
「難しいものですね」
セルはやはり頷いた。
「そうですね」
「…私のことを守ると約束してくれました」
エドワードの言葉にアイカは内心首をかしげる。つまり、協力してくれるということなのか?
セルは一瞬何かを考えたようだった。
「主精霊ならではの約束のようですね?」
「…はい。…この立場にある私だから、守ると約束してくれたのだと思います。私個人と契約するのは、もう少し先のことになる、と言われました」
セルは頷いた。
「そうですか」
「はい。…精霊の力を、私の意思で使うことはできないようです…」
エドワードの声には悔しさが滲んでいた。この戦いに賭ける思いは、誰よりも大きいはずだ。
セルはさらりとこう言った。
「精霊から太鼓判を頂いたようです」
エドワードもアイカも、意味が分からずセルをただ見つめる。
「メアの主精霊は、エドワードさんを国王に迎えると決めているようです。戦いの後のことは、心配しなくてよさそうですね」
セルはにこっとした。アイカには、エドワードの肩の力が少し抜けたように感じられた。
「私もこの国を拠点とする冒険者です。ともに戦いましょう。
さて、急で申し訳ないのですが、お二人共、今日はここに泊まってくださいますか? 明日の正午までに、アイカさんと精霊のお力を確認したいのです」
アイカは頷いた。予想していたことだった。セルは付け足した。
「メアの主精霊は2つです。そのことに意味が無いと、私は思えないのです。エドワードさんもいらっしゃることで、何か良い影響があるかもしれません」
エドワードはなるほど、と頷く。エルフのベテラン魔法使いが言うと、説得力がある。
「では、明朝…当日と同じく日の出の時に、始めましょう。お疲れのところすみませんが、エドワードさん、アイカさん、よろしくお願いしますね」
呼ばれたようにリオナがやってきて、入れ替わるようにセルはすぐ部屋へ戻っていった。
リオナは二人にそれぞれの部屋を案内した。アイカが借りる部屋は、リオナの部屋だった。気がついたがリオナは何も言わないので、アイカも何も言わないことにした。ウォーレスの家と違って、この家はセルとリオナ二人だけが住んでいる家なのだ。
なんとなくまだ眠る気分ではなかったアイカとエドワードをリビングに残し、リオナは部屋へ引っ込んだ。セルの部屋だ。
アイカはそれを申し訳ない気持ちで見て、去り際に淹れてくれたお茶のカップを手で包んだ。
「リオナさんはヒューマンなの」
アイカはぽつりと言った。エドワードは頷いた。
「私より少し年上なだけのはずなんだけど、まるでお母さんみたいな人」
「…リオナ殿は、暖かくて優しいお方だな」
アイカも頷く。二人はそれぞれ思いを巡らせて沈黙した。アイカは母親を知らなかった。そして、エドワードは本当の母親に接したことがない。
「父は暖かな人物だった」
「…うん」
エルディン王が治める国で、アイカはここまで生きてこられた。
知ったのに遠かった。精霊イネインが居ることが救いだった。
長く続く静寂を、細い針で突くようにエドワードが言葉を発した。
「あなたが無事で良かった」
アイカはどきりとする。黙っていると、エドワードは続けた。
「私は精霊たちとの約束を受け継いで、メアを治める」
「…うん」
「父のようにはいかないかもしれない。私なりに国を守っていきたい。アイカはそこで、これからも生きていてくれ」
そこで言葉が終わったので、アイカはエドワードを見やった。生きていてくれ、と、それだけ? お願いはそれだけ?
アイカの問うような目に、エドワードは一瞬小さく微笑んだ。
「アイカは『空の鈴』を続けたいだろうと思うから、城には来たい時に来ればいい。冒険者だって国を支える重要な役だ。…などと色々考えたが、結局…それだけで私は救われるんだ」
そうか、とアイカは実感した。エドワードは、この人は、私を逃がしてくれた、私の兄なんだ。…兄なんだ。私のことをずっと知っていて、心配していた人なんだ。そして、この国を引っ張っていこうと決めている、王様なんだ。
「ごめんなさい」
アイカは謝っていた。何を思うより早く、口がそう動いていた。
エドワードは怪訝そうにした。アイカ自身もよくわからなかった。わけのわからない罪悪感が、胸の内で渦巻いていた。
「私…何もしてなかった」
思いが浮かぶ、そのままを言葉にした。
「私はただ守られて生きていただけ。何も知らなくて、何もしてなかった。何もしてなかった…」
そのときにふと、アイカは自分がエドワードに言ったことを思い出した――無様でも、無力でもありません。生きていて下さって、本当に良かったです。一緒に戦いましょう。
たしかにあの時は、心からそう思って言った。でも、なんて他人事で、無責任な言葉だろう。自分がエドワードの立場だったら、なんて、全く思っていなかった。そうなって初めて、自分は絶対に違うという安心感の中にいたのだと気がついた。城を取り戻した後のことも、戦いのことも、自分は主戦力には成り得なかったのだ――あの時は。
”無様でも、無力でもありません”? 自分はなんて無様で無力なのだろう。”生きていてくださって本当に良かった”? みんなに守られて、ここまで生きていた、それだけ。自分は何もしていない。何も知らなかった。
(ごめんなさい…これから頑張るから…頑張るから…なんだってするから…)
だが、自分に何ができるのだろう?
(イネイン、イネイン、イネイン!教えてよ…あなたは全て知っていたんでしょう? …ごめんなさい、責めたいわけじゃないの。でも、私では何もできないの…何もできないと決めつけたくないけど…)
「守ってくれた方の思いを、私たちは引き受けているのだよ、アイカ」
エドワードが静かに言って、アイカの思考は中断された。
「いくらでも後悔することはあるのだ。それどころか、私は情けないことに、城を取り戻す上で戦力外だ。だが、これからだ。アイカは戦力になれるし、私は今後国を治める。
まず、生きていることだよ。そして、これから出来ることをしていくしかないのだよ」
正論だった。そうだ、とアイカは強く心に刻み込もうとする。
「しかし、それでも…」
エドワードは初めて、一瞬泣きそうなほど沈んだ悲しい表情をみせた。
「どうしようもない気持ちがある…」
アイカの心がふっと静かになった。そして、目の前にいるこの人への不思議な感情が沸き起こった。哀れんでいるのか、愛おしいのか、両方なのか…はっきりしないが、確かなことは、悲しいことも、寂しいことも、目の前にいるこの人と同じだと感じたということだ。アイカは大きく頷いた。
「うん」
エドワードがふっと目を上げて、二人の視線が合った。
アイカはもう一度頷いた。
「うん。…私も、ある」
エドワードは、なぜだか安心したようにほうっと息をついた。走って疲れたあとのまどろみのようだ。
二人はどちらからともなくお茶を飲んだ。
「どんな人たちだったの? …お父さんと、お母さん」
アイカふと、当然の流れのようにそう口にした。
エドワードは、ようやくアイカが発した当然の疑問に答える。
「父上も母上も、元は冒険者だ…いや、父は冒険者ではなかったが、同じようなことをしていたそうだ」
「冒険者だったんだ」
アイカが思わずそう言った。エドワードは頷きながら、自分にとって当然の情報すらアイカは知らないのだということをふと思い出した。
「父上たちの仲間が、城に来てくれることもあった」
今、城にいるであろうルシェン。捕らわれているであろうルナティア。そして父と母と、エルナという、5人の仲間。彼らのことを、エドワードは語った。
知らない、知ることのない、父親と母親の姿があった。語るエドワードも、聴くアイカも、ただ聞いた話。本当を見ることはもうないのだと、どこかで悟っていた。
二人だった。
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