For an Oath -Ⅳ
For an Oath - Ⅳ( 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 )
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まともに動けるのは、エドワードと、ライナスと、アイリーンだけ。闇を司る精霊をもつ者だけだ。
ルナティアの傍に跪いていたエドワードが、すっと立ち上がり、剣を握り直す。そしてアルフェを見上げる。
鈍い意識、アイカはどうにか目を上げてその後ろ姿を見た。その背中は、アイカがこれまで見てきた仲間たちの、戦士の、守る人の、それと重なった。悪魔と戦う者、契約者に対したときの冒険者たちの姿…。
エドワードを守っているのはメアの主精霊リュンヌだけではない。もうずいぶん前から、ライナスは《人目避け》を使っていた。そして今、アイリーンがエドワードの剣へ悪魔に対する強化の魔法を付与する。悪魔の気配の中、まるで光り輝くように感じられた。
「成して、ご覧に入れます」
暗く、全てが霞む悪魔の世界。エドワードの言葉にだけは、一点の曇りさえなかった。ああ、この人は、成し遂げる――アイカの確信を現実に示すように、エドワードは再び踏み出した。
真っ直ぐに。登っていく。しっかりと踏みしめる、歩幅はすぐに、広く。藍色の段を蹴って。やがて体は前屈みに。
今、迷いは不要だった。ためらう理由はこの瞬間、進む気持ちに圧倒されてどこにも見当たらない。選択肢が消え去るほどに勢いをつけて向かっていく。
代わろう、なんて覚悟は必要なかった。あの剣士は、王子は、兄は、アイカがよく知っている強くて頼もしい冒険者ではないが…。
エドワードの弱さを、アイカは知っている。エドワードの強さは、王子という立場にあるときの強さはずっと見てきた。エドワードがアルフェと対峙すると考えたとき、弱さが頭をよぎった。だから、母と子とはいえほぼ初対面の自分が、背負うものが違う自分が、代わってもいいと考えた…それでいつかエドワードが後悔するとしても、それば冒険者たる自分の役割で、そして子である自分だから出来ることだと。
必要なかった。
アイカがアルフェを刺したら、エドワードは恨んだり、後悔したりするだろうかという思いもあった。エドワードはきっと、もうその迷いを超えてここに来ただろう。そう思い至ってしまえば、そんな迷いに意味はなかった。
せめて、決着だけは、私たちの手で…。
アルフェは何も見ていなかった。この空間すべてを包んでしまう悪魔の魔法を使っていたアルフェは、エドワードが向かって行っても何の反応もしなかった。ただ少しだけ、体をエドワードやアイカのほうに向けた、気がした…。
そして――…アルフェの身体が震えるのを、アイカは見た。潮時だ、という言葉の通りだったのか、悪魔はもう手出しせず、アルフェはただ貫かれていた。
絶望的な悪魔の世界が、風が吹いて霧が散っていくように、晴れていく。
安堵。悲しみと後悔よりも、終わりを迎えた安堵がアルフェの表情を形作っていた。
重みに耐え兼ねて、エドワードは半ば倒れるように、アルフェを支えながら座り込んだ。急に意識がはっきりして、アイカは一時混乱する。そうしながらもアイカはいつの間にか段を駆け上がって、傍へ寄り、膝をついた。その人のことを呼ぼうとして、しかし、声は喉につっかえて出てこない。
「早く、剣を抜きなさい、エドワード」
アルフェの声に、怯えたようにエドワードは息を飲んだ。
抜けば、出血で、助からないだろう。
動けないエドワード。アイカはその時間を逃すまいと咄嗟に言葉を紡ごうとする。
「私、よかったよ。私…」
一瞬あとから動き始めた思考が、言葉を邪魔した。単語を見つける前に、静寂が切り裂かれる。
唐突に、つんざくような爆発音が響いた。高くにあった魔法防御も施されているはずの大窓を中心に、その部分が外からの魔法で吹き飛ばされた。尋常ではない威力の魔法。城の上空で戦っていた悪魔たちのことが、精鋭部隊の頭を過ぎる。自然と臨戦態勢となるメンバーたち。
しかし、残響が消えても、何も起こらない。パラパラと、薄い朝色の日の中に破片が舞い落ちる。
「エド…」
ささやくような声に、エドワードは柄を握り直した。すでにアルフェはぐったりと目を閉じている。もう、死んでしまったのではないかと思えるほどだ。
不意にアイカは、初めてアルフェ自身の姿を見たかのように感じた。エドワードも、同じように、母親を見たのだろうか。
契約が終わったのだろうか?
アルフェ自身に戻れたのだろうか?戻らない部分もある、それでも、自分を取り戻せただろうか…?
その思いと同時に、冒険者としての自分が目を覚まし、冷静に理解した。
完全にはもう戻れない。もしアイカが冒険者でなくて、契約者や悪魔のことなんて全く分からなくて、死にゆくこの人が自分となんら関係ない人で…もしそうだったら、アイカは、無理やりどこかから回復術士をひっぱって来るまで待たせたかもしれなかった。
相手は悪魔リューノンという、オルトと悪魔シュラインが相手をするほどの奴で、ルシェンという明らかにレベルの高いディル族の魔法使いや冒険者たちがここまでやられていて、死にゆくこの人は長く契約を結んでいた人で、かつ、元冒険者で、ただ一筋涙を流して殺せと言った。この場にはまだ、あの悪魔がいるだろう。エドワードがアルフェに寄り添う今の状況が、エドワードの命の危険すらある状況だと冒険者であるアイカは感じていた。それに…余力のある回復術士は、いない。
「私、これからも生きていくよ」
突如、思いはそんな形になった。それがどう伝わったのかなんて、知る由もない。他にどう言えばいいのか、今、形にはならなかった。急かすように、アイカはエドワードの握る剣に手を添えて、行動を待った。
アイカは冒険者だ。エドワードはアイカと目を合わせ、気持ちを固めた。最後に、エドワードは再び呼んだ。
「…母上」
返事はなかった。それは、優しさにも感じられた。もしもアイカがエドワードの立場で、こんな場面で名前を呼ばれ、優しい答えを貰ってしまったら、剣を抜くことを躊躇ったかもしれない。そうしたら、ついさっき”必要ない”と思った覚悟をしなおして、考えを戻さなければならなかっただろう。悪魔は、最期の言葉まで利用することがあるのだから…冒険者アイカの頭の隅でそんな考えがちらりと過ぎった。
妙に冷静だ…それでいて、混乱しているような、虚しいような。ふと自らを客観視して、アイカはこんなときに思い至った――母上、と呼ぶエドワードが少し羨ましいのかもしれない。
雲がかかりそうな心に、レイキのことが思い浮かんだ。
そして、エドワードとふたりで語り合ったあの夜のことが蘇った。父や母のいろんな話を聞いたあの夜。エドワードの弱さが垣間見えた瞬間。ふたりだ…。
(ううん、お母さん、私は幸せです。これからも、生きていきます)
曇りはアイカを覆うことができずに消えていく。
エドワードは目を閉じた。
「ありがとう」
ありがとう…アイカはそっと心を重ねた。
静寂に包まれた心。不意に羽ばたきの音が聴こえて、ふたりは顔を上げた。
割れた窓、朝の光の中に、白い翼をもった人が舞い降りた。天使がアルフェを迎えに来たようだ――そんな考えが過ぎった。降り注ぐ陽光、その姿が筋状の影と共に降りて、地面に足を着くと同時にふと顔を上げた。その澄んだ空色の瞳が、場を見渡す。
彼は――オルトだった――静まっている戦場跡の、空(くう)にはっと目をやって切迫した様子で叫んだ。
「リューノンが逃げるっ! 捕まえて!」
不吉な名に皆が顔を上げた。
オルトの視線の先に、見えるか見えないかの暗いもやが飛び去ろうとしていた。アイカにはそれが、マナの動きとしてはっきり感じられる。無意識に、逃がさない、というアイカの気持ちがマナを揺らした。
『止しなさいフェリシア。彼の邪魔をしたくないだろう?』
精霊イネインの意識が叫ぶ。アイカははっと周囲の動きを感じ取った。既に集まり、ひとつの意思に従って変化しようとするマナ。誰が…スーラは気を失っているし、コロナはもう大魔法なんて使えない。アイリーンがスペルストラップを使ったのか…いや、違う。その大量のマナを操るのは――もっと傍にいる誰かだ。アイカはそちらへ目を向けた――倒れたままのルシェン。
アイカは目を見開いて息を飲んだ。まだ、生きていた…!
体は動かないまま、その状態に関係なく、大魔法を使えるほどのマナを操る。信じられない。どれほどの思いが、彼に魔法を使う力を与えているのだろう。今、アイカがマナを操れば、彼の魔法を阻害することになる。それをしてはいけない、と、直感が告げていた。ルシェンは、一時たりとも、敵ではなかったのだから――その一瞬の思考の直後、ライナスの声が低く聞こえた。
「 ハル《潜り影》 」
エルフは天を掴むようにし、悪魔を鋭い目で捉えた。ライナスの精霊、ハルと呼ばれた者は、朝の光が作った濃い影に宿る。ライナスに従って、矢のように天へ飛び、伸びた。それはゴーレムとの戦いで用いられた魔法とは別格だった。形ははっきりしない。ゆえに、はっきりしない悪魔のもやを、閉じ込めることができる。器用にも、ルシェンの集めたマナを乱さずに、それをやってのけた。逃げる悪魔のもやを包み、捕える。
静寂の数秒。
マナが一気に増えた…いや、ルシェンの身体から、マナが溢れ出したのだ。アイカはそれを感じたが、信じられない。そんなことが起こりうるのか。普通の魔法は、空気のように存在するマナを使う。術者がマナを生み出すことなんて、出来ない、はずだ。まるで泉のように、全ての力や、命のようなものが、溢れ出してしまうようだ…。
直後、その全てのマナが、悪魔を取り囲む光の剣となった。
玉座の間で光が激しく輝く。捕らえられていた悪魔を、光の剣が切り刻んだ。まるで、光の牢獄のようだ。『琥珀の盾』にいたアイカが今まで見たどんな魔法よりも、強力な魔法。その牢獄に隙間はない。絶対に、逃れられない。
膨大なマナが、光の檻となったマナが、やがて悪魔を滅ぼして、消えた…。
たった、数秒の出来事だった。
城を包んでいた悪魔の気配は消え去った。
戦場のあとには、崩れた守護ゴーレムの藍色の岩が散らばっている。
時間が止まってしまったような錯覚をもつ一時を過ぎると、生者たちは自分の命を自覚する。
皆、しばらく動かなかった。
終わったのだろうか。
最初に動いたのはオルトだ。静かなその広間で、オルトは半分飛ぶようにしてルシェンに近づき、傍らに膝をついた。
アイカは思わず彼に、そしてルシェンに近づいて、同じように跪く。
オルトはルシェンを優しくて哀しい目で見て、まるで感謝するように目を閉じた。涙が一粒落ちる。アイカの心が悲しく静かになった。本当に、マナと一緒に命も溢れたのだと分かった。
ルシェンは、もしかしたら、最後の魔法を使わなければ、助かったのかもしれない。その可能性もうっすら思い浮かんだが、アイカはその先を考えることはせず、言葉にもしなかった。最後の魔法は、間違いなくルシェン自身の意志だったのだから。そうでなければあんな大魔法は使えない。
オルトはルシェンの傷を、左腕と、左胸と、腹を、変化の魔法できれいに塞いだ。後には僅かな瘢痕だけが残る。アイカはルシェンの口元の血を拭おうと思って何か探した。ちょうどいいものが無くて、でもどうしても拭ってあげたかったので、着ていた服の袖を使った。
オルトは目を上げて、アイカに少しだけ微笑んだ。寂しそうな空色の瞳。
あ、とアイカは気がつく――オパールの瞳は、どこへ?
オルトはアイカの様子に気付かなかったのか、戦場跡を見回す。真っ直ぐな空色の瞳はやがてアルフェと、傍らのエドワードに向いた。両腕の翼を半ば引きずり、人の足で歩いて近づく。
何も言わないで、アルフェの傷を見た。寂しそうな微笑を送って言う。
「きれいにしてあげようね」
回復魔法は、生者にのみ効果がある。変化の魔法は、回復魔法で治せない傷を“変化”させることができる。
傷が塞がってゆく。小さな瘢痕だけ残して、魔法は終了した。
「ああ…すごいな」
エドワードは思わず呟いて、深くオルトに頭を下げた。
「ありがとう、オルト殿」
静かに抑えられた声。それを聴きながら、アイカもオルトへ頭を下げた。
オルトは首を振る。
「ううん」
まだ翼のままの腕を広げて、オルトは滑るように玉座から下った。いつの間にか玉座を見上げていたアイリーンとすれ違う。段を登ることはなく、アイリーンはすれ違うオルトに深く頭を下げた。
オルトは順に精鋭部隊のメンバーを診ていった。防具がほとんどの呪いを防いでいるはずだが、予想外の魔法があったら防げない。
控えめに交わされる言葉をなんとなしに耳に入れながら、アイカはふと、ルシェンの首元に目をとめた。
2つ、何か着けている。ペンダント?
アルフェを寝かせてやってきたエドワードも、アイカの見ているものに気がついた。
「これは…」
服の下に仕舞われたそれを引き出して、エドワードはまじまじとそれを見た。アイカにも見覚えのあるものだった。最近、見た…そう、城に入ってすぐ、隠し部屋で。リーフが手にしていた物と同じではないだろうか。
「父上が同じものを着けているのを、見たことがある。母上も…」
え、とアイカは顔を上げた。レスターと話すオルトの声が耳に入ってくる…「《道連れ呪い》、です」。
エドワードは思いついたように、確かめに戻った。だが、アルフェはそれを着けていなかった。
アイカとエドワードは何も言えず、アルフェやルシェンに目を落とすばかりだった。
「…オルトさん。…シュラインは?」
コロナの声が聞こえた。オルトの答えは曖昧な頷きだけ。何かを察したコロナが別の言葉をかけた。
「これで、リューノンもしばらくは大した悪事を働けないでしょう」
強大な悪魔は、完全に滅ぼすことなど不可能に近い。魔法のような性質をもつそれは、自分を”分けて”どこかに隠しておく。リューノンもその類の悪魔だった。
それでも間違いなく、大きなダメージを与えた。悪魔との戦いにおいて限りなく勝利に近いものだ。
「うん。そうだねー。…シュラインも、あの…魔法使いさんも、みんな、頑張ったから」
ふと顔を上げてオルトのほうを見やる。オルトはリーフをふっと見て、目があったようだ。アイカからリーフの表情は見えなかったが、纏う空気は、触れ難い。
リーフの声は冷静に聞こえた。
「やはり悪魔を完全に滅ぼすというのは、難しいものですね」
そしてまたルナティアに視線を落とす。
低めに抑えられた素っ気ない声。続いたのは、酷い痛みを内包した静寂。
その静けさは、低くて柔らかい声がオルトを呼んだことで緩和された。
「皆に終戦を知らせてもらえるか?」
使える矢を回収していたライナスが、立ち止まってオルトに声をかけたのだ。
取り乱すことはない。悲しくないわけではない。
だけどこの戦いは終わった。
何も全て無駄だったわけではない。全体をみれば、勝利に近い、はずだ。
オルトは頷いた。
「はい」
オルトは再び白い鳳に姿を変えて、飛び立った。
戦いは終わった。終わったはずなのに。
暗い朝日が、玉座の間へ静かに降る。
外では戦いが止まり、太陽は高くなり始めていた。
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