For an Oath -Ⅳ
For an Oath - Ⅳ( 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 )
ルシェンがそこにいたから、手を差し伸べた。それだけだった。アルフェから遠ざけようとか、精鋭部隊のほうへ避難しようとか、そんなことが頭の中を巡るのは、動いた一瞬後のこと。
左腕と、左胸の脇に大きな傷。黒いローブでは目立たないが、左手に赤く血が伝っている。より蒼白な顔で、それでも立ち上がろうとする。
「離れましょう。あなたはもう戦えない」
支えようとしたリーフを上目に睨み、ルシェンは助けを拒絶した。
「来るなと…言わなかったか?」
来ないなんて言ってない、リーフは内心反論しながら、問答無用、アルフェから離れようとルシェンを半ば抱えるようにする。
「やめろ!」
「知りません」
「お前は敵だ。私たちの望みを阻む…」
「あなたの望みは痛いほど分かってます!」
「違う!」
ルシェンが手を振りかざす。リーフは攻撃魔法を予測して構えた――その二人のすぐ横を、颯爽と駆け抜けた影。
不気味に傍観しているアルフェに、ダガーを握ったルナティアが迫った。両手で低くに構えた刃は殺気を孕む。
振りかざした手の先が、わずかに後ろに向いた。リーフはそれを掴んで押さえ込む。
ルシェンは振り払おうともがいて、叫び、血に濡れた左腕をリーフに向けて容赦なく光の魔法を放った。魔法防御はそれを軽減し、リーフは後ろに倒れるだけに留まる。
ばっとルシェンが振り返ったその時、再び黒い魔法が巻き起こった。あと一歩、というところで刃はアルフェに届かない。無表情に見つめるアルフェは魔法の兆候もほとんどなしに、黒い魔法を纏う。狭い範囲だけで吹き荒れ、ルナティアを吹き飛ばした。魔法防御はその一撃で無効になってしまっただろう。段の下まで転がった彼女を、居合わせたエドワードが支え起こす。 それを見下すアルフェ。
リーフは――ルナティアが失敗した今、アルフェに向かうことが真っ先に脳裏をよぎったが――あの悪魔を相手に立ち向かうことの無謀さを感じ取って、再びルシェンをアルフェから遠ざけようと手を伸ばした。今立ち向かえば、結果は見えている。今、ルシェンを遠ざけなければ、きっと、ルシェンは敵となる…。
手が触れた、その時、アルフェが音もなく振り返った。その目がルシェンを見る。
まずい、と直感したリーフはルシェンの首に手刀を入れた。抵抗されるくらいなら気絶していたほうがいい。ルシェンの上体がぐらりと揺れる。
「手を出すな」
氷のような声が、アルフェの口から発せられた。はっ、と目を上げたリーフに黒い魔法が放たれる。それはルシェンを避け、リーフだけを玉座の台上から突き落とした。転がり落ちて、段の途中でリーフはどうにか腕で体を支えた。魔法自体が消えても、痺れるような痛みが続く。
アルフェは威圧的に立ち、見下した。
「無力な部外者。お前に顛末を決める権限はない。お前の役は、傍観者だ」
アルフェじゃない。悪魔だ。拳を握り締める。リーフの内に炎のような激情が燃え上がった。為すすべもなく負けた、あの時の記憶が蘇る。同時に、ここまで持ってきた決意たちも。
アルフェは細い声で呼びかけながら、ルシェンを軽々と支えた。
「ルシェン…私たちの敵が増えてしまった」
その言葉には、明らかに残酷な意志が含まれていた。起きろ、戦え、と。気絶させたはずなのに、ルシェンは顔をしかめ、呻きながらも、目を開ける。
「あんたはもう立つなっ! 僕たちが諦めないから! あんたはもういい!」
叫んだリーフを、アルフェは冷笑した。ルシェンは支えを離れ、ふらりと立ち上がる。疲労しきった全身、だが、瞳の奥に、一縷の光がある。それは悪魔に与えられたものなのか、あるいは、他の何かなのか…。
「諦める…はずが…ないだろう」
どうして、などと思う余裕もない。次にルシェンが取る行動は…。
アルフェから、いや、悪魔から、さらに力を与えられたようだった。アルフェはまた無表情に、ルシェンの後ろに控える。ルシェンの背後にはぼんやりとした、それでいて確かな、影が目視できた。
構えるリーフの視界の外から矢が飛び、障壁に弾かれる。ライナスのその一手で、リーフは剣を握っただけで向かっていくことが無駄だと悟った。そして、自分が大きな機会を逃したことも。
どうすればいい?
一時の思考は、相手にとって十分な時間だった。ルシェンが放ったのは、光ではなかった。悪魔から与えられた力で放った魔法は、あの黒い魔法とよく似た魔法。
ルシェンの動きから先読みして魔法を躱し、右へ飛び転がった。
(アルフェを…悪魔を先に倒すしかない。ルシェンを攻撃してもダメだ…だけど…)
ルナティアがアルフェに刃を向けてから、悪魔が出てきた。敵わない。ルシェンを取り戻す試みも、潰される…。
黒い魔法をもう一発躱した。
フィオが、そしてリーフを後方から抜いてレスターが障壁に斬りかかる。本気でそれを破ろうとしているかのようだ――いや、狙いは、そうではない。
ふたりと、そしてリーフに気を取られたルシェンは、気づけていない。リーフは離れてから気がついた。
エドワードはあと数歩で、障壁を超える。ただアルフェを見据えて、剣を構え、突進していた。
その動きは、今の今までリーフの意識の外だった…まるで、白い剣にかけられた《人目避け》の魔法が、エドワードにもかかっていたように…。
ルシェンを見上げた。フィオやレスターを攻撃している。あと数秒気がつかなければ…。
「ルシェンッ!」
「ルシェン」
リーフの大声、その裏に、静かな声があった。心を細く刺し入り込むような悪魔の声…。
リーフはルシェンに、障壁に、挑みに走る。ルシェンはリーフの声に応じた。駆けながら、内心驚き、ルシェンに畏敬の念を抱く。ここまできて、悪魔の声よりもリーフの声を優先させることなんて、出来るものなのか。あの入り込むような声を、無視出来るのか。本当に、正気を失っているのか、いや、もしかして、やはり、完全には、まだ…。
だが、どうやら、魔法の威力に容赦はないようだ。リーフは魔法使いたちを信じて、進んだ。防御してくれても、力負けしない保証なんてない。まして、この相手だ。
それでも、これでいい。ルシェンの魔法をリーフが受ければ、エドワードに与えられる時間は充分だ。
(そういうことだろ、ルシェンさん)
ルシェンに頼られ、リーフはそれに頷いた、そんな気がした。魔法は止まらない。リーフはそこへ向かっていく。
だけど僕はあんたとは違う、リーフはふと思った。生きる。自分を守ってくれる魔法使いの力を信じている。たとえルシェンが悪魔の力を与えられて魔法の威力が跳ね上がっていても、エドワードを守るためのリーフとルシェンの行動は、期待した結果を残すだろう。
そして…。
そして、エドワードがルシェンを悪魔から救うだろう。まだ諦めることなんて全くないんだ。リーフは真っ直ぐにルシェンの目を捉えた。
「 ルシェン 」
氷の針のような声があまりにもあっさりと、ふたりの世界を粉砕した。ルシェンの注意は、視線は、攻撃の対象は、ぐんっと引っ張られるように変わる。
そしてエドワードを捉える。
瞬く間もなかった。まして、何か行動を変える時間など。
思うよりも早く。動けたのは、ただひとりだった。
たったひとり。
熟練の冒険者は、そこで初めて存在感をあらわした。
ルナティアが、エドワードと魔法の間に躍り出た。
*
《人目避け》と似た魔法を纏って、彼女はエドワードの傍にいた。恐らくそれは、アルフェが死に障壁が消えたときにルシェンに対応するための行動だった。裏目に出た。コロナはリーフの防御に、アイリーンはエドワードに注意を払っていたものの、コロナに協力する判断を既に下していた。魔法を使いすぎているコロナ一人では防ぎきれない可能性が高いし、威力のある、それも呪いの性質をもつ魔法であると見抜いていたからだ。
ルナティアを守るものは何もなかった。
その長い長い一瞬のうちに、体は信じられないほどほんの僅かにしか動かせない。
遠い。何歩だ。そんなにかかる距離ではないのに。
ルナティアを受け止めようとして、エドワードは一緒に転がった。登った段を、また下る。いつの間にかリーフの体は動いて、ようやくふたりの元へ駆けつける。エドワードが、何か言っただろうか。とにかく無事なようだ。リーフはルナティアを支えようと手を伸ばす。その重みが腕にかかったとき、リーフはやっと時間に追いついた。
身に付いた動き。リーフはルナティアを呼びながら、意識を確認して、脈をとって、呼吸を見る。だが、全てが、示していた。ルシェンの魔法は、何の防御もなかったルナティアを殺すには充分すぎた。
(…、…何が、充分だって?)
そんな言葉が頭の中で聴こえた。戸惑う自分の声。同時に、遠くの世界で、だが確かに現実で、リーフは冷静に理解する。
そして、ルシェンをふっと見上げた。
ルシェンは魔法を放った格好のまま、ルナティアのほうを凝視していた。だがリーフと目が合うと同時に顔を歪め、苦しみとしか言いようのない表情でかぶりをふり、ふらっと後ずさった。
――どうして。
リーフもルシェンもきっとそう思った。こんなことは、誰も、意図していなかったのに。誰も望んでいなかったのに。
誰もこの現実に対処できていないうちに、彼女は動いていた。
ふうっと微かな空気の流れに揺られるように、動いた、とも認識しにくい動作で、黒いドレスを流して。その手元で刃がきらめいたのを、リーフの目は捉えていた。それが何を意味するのか、まだ頭が追いつかない。
アルフェは音もなくルシェンに寄り添い、彼の腹を刺していた。悪魔の声が重なって聞こえる。
『ふざけた真似を』
「今までありがとう」
あまりにも瞬間的な出来事、あまりにも素っ気ない動作。リーフの目に映る光景とそれがもたらす結果とが、乖離していた。
『さっさと与えた魔法を使っていればもうひとりやふたり、簡単に殺れただろうに』
「貴方はもう限界ね。壊れてしまう前に、おやすみなさい、ルシェン」
抜いた刃は予想よりずっと長かった。アルフェ、と、動いたルシェンの唇からは血が溢れ、そのまま、ルシェンは崩れ落ちる。やはり、信じられないことに、もたらされる結果は、死なのだった。
さよなら、と掠れた声でため息のように呟いて、アルフェは精鋭部隊を見下ろす。無表情な彼女は、ただ、一筋だけ涙を流した。
『潮時だな』
「私を殺しなさい」
アルフェの声と重なって聞こえた声に、リーフは顔を歪めた。それが全ての元凶なのだと、深く深く苦しいほどに理解する。初めから、こうと決まっていたのか――…?
こいつがルシェンを呼ばなければ。こいつがルシェンを立たせなければ。こいつが黒い魔法を使わなければ。こいつが…いなければ、何も始まらなかったのに。幕引きすら、こいつの思うままにしかならないというのか。
悪魔の気配が強まり、広がった。場を包む。マナが全て悪魔に変わってしまったかのようだ。
「やっと終わりよ。終わり。終わりなの。どうぞいらっしゃいリューノン。これであなたとの契約も終わり」
終わりだ。終わりだ。これで終わりなんだ。もういい。終わりだ。終わりだ。全て終わりだ。終わりだ。
耳の奥か、何処か遠くか。心の奥にしみるような囁きが広がる。一筋光を残すように、オルトの守りの防具がそれを軽減する。
それでも、動けなくなった。体だけではない。思考が。
リーフはルナティアの止まった鼓動を、指先で確認した。
アルフェと悪魔が発する暗い魔法よりも深い闇をもって、玉座の上の元凶を見上げる。
本来なら、リーフはこの魔法の中で動くことなど叶わないはずなのだ。まるで闇に馴染んだように、ものともせずリーフは立ち上がる。
そう、終わりだ。終わらせてやる。
玉座の上しか見えていない。剣を構えようとしたリーフの視界に、誰かが割り込んだ。行く手を阻むものに、リーフは言葉を投げる。
「邪魔するな。あいつは存在してはいけない。あいつは居てはいけない」
視界の中で、力強い瞳が鋭くなった。次の瞬間、頬に強い衝撃を受け、リーフは張り倒された。
剣をもぎ取られて、胸ぐらを掴まれる。フィオがリーフを真っ直ぐに見て言った。
「死ぬな」
リーダーの切実な言葉は、リーフの心に馴染んだ。
「エドワードを信じろ」
弾けたように視界が、意識が、広がった。すぐそばに、ルナティアを支えるエドワードがいる。衝撃を受けた。まだ終わっていない。まだ、何も、終わっていない。リーフだけのことではない。ここに来る前から、リーフはもうずっとひとりではない。
リーフは呆然とした。
死ぬな…。脳裏をよぎったのはルナティアのことだった。そして、エドワードと、オルフィリア…アイカ。
フィオが手を離して、そのまま床に手をつき自身の体を支えた。これまで微塵も感じさせなかったが、ダメージが蓄積しているのだ。
現実に戻った、そう感じた瞬間、リーフは悪魔の魔法の影響を自覚して動けなくなった。
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