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For an Oath -Ⅰ

     マナが濃く魔法国と言われるメア国。最強の魔法の守りをもつ城に、悪魔が居座っているなどとは誰も思いもしなかった。

      何事もなく過ぎていた時間。ついに事が起こる――。@1770年

 

For an Oath - Ⅰ( 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 

 

 そこに、はじまりの樹が生まれた。

 根が大地を掴み、枝が空を押し上げ、その世界は始まった。

 はじまりの樹の《葉》から生まれた神と呼ばれるものたちと、精霊と呼ばれるものたち。

 はじまりの樹の《実》から生まれた、人――ヒューマンやエルフ、ドマール、天使といった種族。そして動物と呼ばれるものたち。

 はじまりの樹の《息》――世界に満ちるマナは、生き物たち自身や、その心に応じて姿や性質を変える。

 マナの性質により、長い時間を経て、意図せずヒトの心から生まれたもののひとつが悪魔であった。

 それは体をもたないため、滅ぼす方法が限られていた。天使族は悪魔を怪物の姿として具現化させ、それを他種族のものが剣や魔法で討った。

 歴史の中で、怪物は魔物、それらや悪魔自体を討つ者は、《悪魔を倒す者》や《悪魔とたたかうもの》の意味を込めて“冒険者”と呼ばれるようになった。

 そして、悪魔の力を得る代わりに、悪魔に何かを捧げた者を“契約者”と呼んだ。

 マナある限り、悪魔は周囲と契約者に影響を及ぼす。契約者や、長く悪魔の傍にいた者は、非道な行いを非道と思う心を失うことがほとんどであった。

 冒険者とは、魔物や悪魔および契約者を討つ者である。

 

 

 メアは魔法国として知られている。マナの量が多く、魔法使いの人口も多い。

 城の兵士も魔法を扱える者が多い。黒い石の城壁には防御の魔法が染み込んでいる。メア城内部は国の守護魔法使い以外、許可なしに一定レベル以上の魔法を使うことはできない。

 だから、まさかそんなメア城に悪魔が入り込んでいるとは、皆思わないのだった。

 王子エドワードは、物心着いた頃から気がついていた。

 王妃アルフェは、エドワードが生まれたころには既に悪魔と契約をして長かったという――城を訪ねてきてくれる父の古い友人から聞いたのだった。

 父、国王エルディンは気付いているものの、どうすることも出来ずにいる。悪魔が強すぎるのだ。

 エドワードは父に対する人質なのだ。そうでなければ自分はこうして生きていない…エドワードは薄々そう思っていた。

(私は、恐らく、悪魔にそれほど影響されていない…)

 生まれてからずっと悪魔が近くにいる環境だ。何が正常な自分なのか、エドワードには分からなかった。それでも、自分はまだ正常なのだという希望的な思いが、時折沸き起こる。それがエドワードの気持ちを助けていた。

 この城の中に居る者は、悪魔に立ち向かうことが出来ない。だから父の古き友人が動いてくれていた。

 父も母も、ヒューマンとエルフのハーフ、エドワードもまた同じくハーフエルフだ。この種族にとって数十年は、それほど長くはない。しかし、数十年には違いない…少なくともこの30年ほどは、悪魔は何もしていない。何が目的なのか分からない。何かを待っているのかもしれないが…何もできない。

 

 エドワードは城から出たことはなかった。

 きっと、このまま、終わってしまうのだ――そんな思いが心に立ち込めていた。

 玉座に続く廊下で立ち尽くした。

 今日は父の古い友人が来ている。

(”私に構わずに、どうか悪魔を倒して母上を、この国を救ってください”)

 心の中ではきっぱりと言える台詞を、エドワードはまた思った。もう何度、喉元まで出かかったことだろう。

 何度も何度も、父にも、父の友人にも言おうとした。その機はことごとく潰された…見張られているかのように。だがもう、この台詞を言うことはないだろう。きっと、もう遅い。

 父の旧友が来てから一時間は経っていた。彼が訪ねてきたのは、エドワードが父に、例の台詞を言いに行こうとした矢先のことだった。

 旧友の彼は、既に心を病み始めていた。そしてそれを自覚しているようだった。それなのに、今日、来た。恐ろしい予感はある。だがそれは、心の深くでまどろんでいて、何か行動を起こさせるには鈍い。

 彼がもう危ないことに気がついたのは、エドワードだけではなかった。

 父の古い友人がもう一人、しばらく振りにやってきたのだ。彼女は深刻な表情でエドワードに尋ねた。

「エドワード、ルシェンが参りませんでしたか?」

 彼女はエドワードとも見知った仲で、様、などと付けずに呼んでくれる、かつ、そうしても問題ない”父の旧友”という立場の人物だ。

 エドワードの胸の奥の予感がわずかに身じろいだ。

「ルシェン殿は、父上に会いに行かれました」

 それを聞くと彼女は急いで玉座に向かった。

 エドワードは立ち尽くしたまま、その後ろ姿を虚ろな目で見送った。

 どうすればいいのか分からなかった。思考は鈍い――これが常だ。

(私には何もできない)

 無力感が付きまとう。

 この無力感は、悪魔のせいだ、と、言ってくれた人物がいた。二十年も前の側近魔法使いだった。それが本当なのかエドワードには分からない。だが、その側近までも狂ってしまうのが嫌で、衝動的に、彼女を逃がした。

 そう簡単には、エドワードを置いて城を出ようとしてくれなかった。だから、というわけではないが、エドワードは彼女に任務を与えた。

 当時2歳だった妹を連れて逃げてくれと頼んだのだ。

 何を計画したわけでもなかった。ただ心に従って、エドワードは彼女たちを逃がした。

 エドワードは一人になった。それでも、どこかで彼女たちが生きているかもしれないと思うと、少しだけ気持ちが安らいだ。エドワードはそうやって今まで生きてきた。

(だが、私は、きっともう死ぬのだろう)

 なんともなしにそう思った。胸の奥の予感は、そういうことだろう。

 しかし、諦めることは許されない。エドワードは、王族だった。そして、父が諦めていないことを感じていた。無力感と責任感の板挟みになり、だが、思考は鈍く、エドワードは何も行動を起こせずにいた。

 

 慌ただしい足音とともに、彼女が戻ってきた。ダークエルフ族の彼女は、浅黒い肌の色だ。その頬から血の気が引いて、顔色が悪い。真剣な目で、まっすぐエドワードを見ながら、エドワードの肩をつかんだ。

「エドワード、逃げなければ」

 エドワードはただ彼女を怪訝そうに見返した。

(今更何を言っているのか? 生まれてこの方、逃げなくていい状況などあったか? それでもこの城にとどまらなければ、私がいなければ、終わってしまうから、だからここにいたのではないか? …ああ、もう、ここに留まっても、終わりなのだろうか?)

 反応のないエドワードを、彼女は引っ張った。

 逃げる。望んだことはあった。夢物語を描くように、現実味を帯びないまま、逃げたい、逃げればいいのでは、と、心の中だけで呟いた。だが、逃げれば、きっとエドワード以外の誰かが人質になったり、父が殺されたり、逃げる前に意識を乗っ取られたり、そういうことがあるのではないか、と、そんな考えが次から次へと湧き出てくるのだ。

 今、エドワードは手を引かれるままに走っていた。何があったのか知っているのは彼女だ。城の状況を知り、かつ、悪魔に影響をほとんど受けていないのは彼女だ。だから、従った。

「城を出ます。ここは心が暗くなる。外はもっと希望が持てる場所です。この城にいるから、悪魔の影響を受けてしまう」

 いつか、同じことをルシェンも言っていた。

 彼は城に来すぎた。結果、悪魔に心を毒された。彼は、手を出し過ぎた。彼は、多分、悪魔を倒しうる存在だった。そうだったのに。

 引っ張られて走りながら、エドワードは彼女に言った。

「ルナティア殿。私はずっと、生まれてからずっと、母上と同じこの城にいました。私はきっと、ルシェン殿よりも影響を受けているでしょう。外に出たところで、どうせ…変わらないのです」

「では、変わらないかどうか、この際試してください」

 きっぱりとした言葉に、平手打ちを食らったような衝撃を受けた。

「あなたがいないと…終わってしまう。国も。私たちの意思も。こんな城で生きていくなんて私には考えられませんが、あなたはこんなところで生きて下さった。王子という、悪魔に近づかざるを得ない立場ながら、狂いもせず、自害もせずにいられたのは、あなたがまだ、生きたいと思ったり、責任を感じていたり、どうにかしたいと思っておられるからではないのですか」

 そんなの分からなかった。ただ、たしかに、生きてはいた。

「何も変わらなかったとしても、城には戻らないでください。ここには出会いや、変わる可能性もない。外には可能性があります」

 それから言葉を交わすこともなく、引っ張られるまま、彼女とルシェンなど、古い友が知っている出入り口を通って、外へ出た。

 知らない通路を通り抜けて、エドワードは初めて、外へ出た。

 

 一歩。

 さらに一歩外へ。

 城から離れて、一歩、一歩、一歩。 

「何も変わりませんか?」

 問われるが、エドワードは言葉を返すことが出来なかった。

 彼女――ルナティアは続ける。

「私は、息苦しさや沈む気持ちや、城の中の重苦しい空気も、全てが取り払われるのが分かります」

 ようやく、エドワードは頷く。彼女の言う意味は、よくわかった。ルナティアが思うよりずっと、エドワードはそれを感じていた。

 進む度に、曇った膜が一枚取り払われるようだった。やがてその膜はすっかりなくなる。心や、体が、軽い。息がしやすい。空気は冷たく澄んでいるのが分かる。まとわりつくものがない。思考が、信じられないくらいにはっきりしていく。感情が、激しい。

(どういうことだ?)

エドワードは感情の奔流の中で混乱した。

(これが本当なのか? これが当たり前なのか? これが、普通の世界だというのか?)

 気付けば、エドワードの頬を涙が伝っていた。嘘だ、これまでの私の人生はなんだったのだ、と叫びたくなる。否定したい。受け入れることが出来ない。だが同時に、これが本当で良かったと、心から思った。

 考えが…たくさんの考えが、それも、どうにかしようと思うことや、これからどうすべきなのかということなど、未来が、希望が、頭の中に浮かんだ。

 信じられなかった。

(こんなにも望んでいたのか? 何もかも、あの城のなかにいて、悪魔の影響を受けていたから、たったそれだけのことだというのか?)

「ルナティア殿…私は…あぁ…」

 考えが、思いが嵐のように頭の中で吹き荒れて、何も言葉にならなかった。

 随分長い間、ただ泣きながら走った。

 そのうちに、思いの嵐は一本一本風の帯になって収まり、最後に、最も重要なひとつが言葉として残った。

「私が守らねばなるまい…」

 どうすればいいかなど分からない。それどころか、城の外のことなど知識としてしか知らない。なにもかもこれから考え、多くのことを誰かに頼らなければならない。

 目的だけは、はっきりしていた。

 悪魔を討伐しなければならない。恐らく、契約者である母も、討たねばならないだろう。城の内部の者ではもうどうにもできない。外部の者にエドワードが助けを求めて初めて、悪魔討伐の動きが始まるのだ。

「エドワード」

 ルナティアに声をかけられて、エドワードは、つないだ手を握った。

「ありがとう、ルナティア殿」

「追手が来る前に話しておくことがあります」

 ルナティアの声に、何か不穏なものを感じた。

 玉座から、蒼白な顔で、慌ただしく戻って来たルナティア――エドワードはなんとなく察した。

「ディンは…エルディン王は…ルシェンの手にかかり、亡くなりました」

 一瞬、頭が真っ白になった。

(ルシェン殿が、父上を?)

 エドワードは、父親の死は予想していた。だがその死をもたらすのは、母アルフェだと思っていたのだ。ルシェンが心を病み始めているとは思っていたが、まさか旧友を殺めるようなことまでしてしまうなんて。

「そうか…」

 外に出ても、気持ちは限りなく沈むこともあるのだと知った。父はいなくなった。ルシェンは心を病んだ。母は悪魔に奪われた。

 だが、誰がどうなっても、エドワードが一番守らなければならないものは変わらなかった。

(この国だけは、悪魔が何かする前に、取り戻さねばならない)

 エドワードとルナティアは駆けて、城の魔法封じが届かない場所まできた。その時だった。

 

「エドワード様!」

 知った声だった。ぎょっとしたが、城の者ではない。

 それは、二十年振りに聞く声だった。エドワードが信頼を寄せることが出来た、数少ない存在。

 かつての側近であった、魔法使いのアイリーンだった。

 妹を連れて逃げさせたあの側近だ。城に戻ることは許さないと命じてあった。

 彼女はローブではなく質素なブラウスとロングスカートで、杖も持たず、着の身着のままここへ来たといった感じだった。

 ルナティアは、ブレードを抜いて警戒する。それをエドワードはとっさに制した。

「私のかつての側近です、ルナティア殿。強い味方です」

「…罠の可能性は?」

 罠ではない。これは、違う。

「あなたの言う、外の世界の可能性です…アイリーン、なぜここに?」

 アイリーンはエドワードの前へ――ルナティアのブレードに臆することなく――跪いた。

「お話すると少々長くなります。お答えする前にひとつご報告致しますことをお許し下さい。妹君は信頼のおける人物に預けました。ご健在です。

ここへ参上致したのは、エドワード様を見つけたからです。城の周囲をずっと意識しておりました」

アイリーンは少し顔を上げて、感極まるようすでエドワードを見つめた。

「二十年も…待っていてくれたのか…」

「…よくぞご無事で…!」

 ルナティアはブレードを納めた。

「良かった。ウィザード・アイリーン、テレポート《空間転移》で逃げられますか?」

 アイリーンの表情が一瞬にして引き締まった。

「やはり、事が動いたのですか?」

「アイリーン、父上は崩御なさった。私は悪魔から国を守ろうと思う。再び私を助けてくれないだろうか?」

 崩御、その報せに一瞬戸惑う様子をみせながらも、アイリーンは深く頭を下げた。

「エドワード様がお生まれになってから、もちろんこれからも、私の主はエドワード様です」

 なんという心強い言葉。城から出たことのなかっエドワードにとって、アイリーンの助けはこの上なく頼もしいものだ。

「フィウメに転移先を準備しています。が…私の力では…」

 気遣わしげなアイリーンの視線を受けながら、ルナティアは微笑んだ。アイリーンは、せいぜい一人連れて空間転移するのが限界なのだろう。

「お二人で逃げてください。私は別にやることがあります。ルシェンを取り戻す手段が、ひとつだけあります。それを試みます」

 エドワードが何か言う前に、ルナティアは強く言った。

「生きてください。私やルシェンや、周りの者がどれだけそれを望んでいるか、どうか分かって下さい」

 ルナテイアの瞳の奥の力。その言葉。それらが、エドワードの立場を、エドワードの心に強烈に刻む。責任。使命。そしてエドワードがいかに、この人たちにとって大きな存在であるか。

 決断するには十分すぎた。

「私は私のすべきことを成します。ルナティア殿、どうかご無事で」

 ルナティアは頷いた。

「行ってください」

 そう言いながらルナティアは振り向きざまブレードを抜く。

 追手だろうか?

 アイリーンがエドワードに寄り添い、魔法を開始する。アイリーンは詠唱なしで魔法を行えたとエドワードは記憶しているが、たしか、痕跡を残さない空間転移は難しいのだ。そのためだろう。

 ルナティアはあえてエドワードたちから距離を取るように、逃げてきた道へ足を運んだ。

 置いて行っていいのか。エドワードの心は揺れる。だがエドワードは生きねばならない。生きるからには、成さねばならない。

(成して見せよう)

 テレポート発動の一瞬、視界が歪む。

 最後に見たのは、ブレードで敵の矢か何かをはじき落とし、駈け出すルナティアの姿だった。

 この人が死ぬはずない。そう信じるしかなかった。

 

 

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※それなりに残酷な表現があります。

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