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風の音

 

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「ただいま」

 意を決してそう言った。こんなに勇気のいるただいまなんて、イタズラをした日の夕方くらいなものだ。

 やはり母親は、その一言で何かを察したようだった。

「おかえりなさい。…お父さんは部屋にいるよ?」

「あぁ、うん…。…」

 なんとなく母親に言いそびれた。多分母親は大丈夫だから、問題は父親なのだが、母親には先に言っておいたらいいかな、などと、思ったのは本当だ。

 とにかく、先にこれだけは言わなければ。

「あのさ、試験の帰り道で旅人に会って」

 うん、と母親は話を聞いてくれる。

「ちょっと…」

「大丈夫よ、私は何言われても驚かないわよ、何年生きてると思ってるの」

 これは母親の、多分、冗談だ。フィオリエは、というか、エルフは、正確な年齢なんて、子供時代しか把握していない。

 フィオリエはうじうじするのをやめて覚悟を決め、さっきの吹っ切れた気持ちを思い出した。

「これから世話になる予定なんだ。その旅人に。俺冒険者やるから。明日から。それで、紹介しようと思って連れてきた。来てもらってるから、入ってもらっていいだろ?」

「あら…まあ、また突然ね」

 そう言いながら、宣言通り、母親はそれほど驚いた様子ではない。フィオリエは母親が取り乱したところを見たことがなかった。幼い頃に怒られた記憶があるにはあるが、あれは一体何歳の頃だろう。随分前のことだった。

 

 母親は、フィオリエが半開きにしていた扉を開いて、外で待っていた旅人を招いた。

「こんにちは、旅のお方。フィオリエに付き合ってもらってるみたいで、悪いわね」

 招き入れられたエルミオは興味深そうに、母親を見て話す。

「いいえ。旅の道で出会ったのですから。これも旅の一環です」

「そう言ってもらえてよかった。…どこのお方? 東のほうからいらしたの?」

 母親が不思議そうに訊ねる。ああ、とエルミオは笑った。

「俺の種族のことでしょうか?」

 フィオリエは興味を惹かれて聞いていた。エルミオの種族は、フィオリエには全く分からなかった。とりあえず、エルフでも、ミユでもラークでもないことは分かるのだが。

 答えを期待していたのに、エルミオが言ったのはこんなことだった。

「俺にも分からないんです。でも、旅のはじまりは北のほうでしたよ」

「そうなの。北から。あそこは新しい土地だから、新しい種族なのかもしれないわね。きっと、答えは旅の中に見えてくるのでしょうね」

「のんびり構えて、旅を続けますよ」

 ふふ、と母親は笑った。

「まあ、良い方と出会ったものね。不思議な方だけれど。フィオリエ、先に荷造り済ませてしまいなさい。それからお父さんに言って出発しなさいな。明日はお父さん朝からお仕事だから、その寸前に言うのがいいと私は思うよ」

 フィオリエは、その時が遠のいたことに拍子抜けしつつほっとして、母親の助言に頷いた。この人の言うことは、なんだか説得力があるのだ。母親は、経験から考え抜いても、直感に頼っても、悪くない結果にたどり着く。それをフィオリエは、19年間で感じ取っていた。

「じゃあ出発の前にエルミオのことも紹介するんでいいか」

「そうね。

旅人さん、エルミオとおっしゃるのね? 宿はもう取った?」

「はい。パウゼ、という素敵な宿を見つけまして」

「あら、それならそちらがいいわね。せっかく立ち寄ったのだから、風の都を楽しんでくださいな」

「ありがとうございます、そうします」

 エルミオは母親に笑いかけて、それからフィオリエに言った。

「じゃあ、明日の朝、日が昇る頃に――ああ、ここだと、山陰になるのか…」

 太陽を時間の目安にしていたエルミオは困った。

「風の塔が鳴るから、その頃はどうだ? 朝が来ると、風が塔で遊ぶんだ。ちょうど日が昇る少し前だと思うけど」

 フィオリエの提案に、エルミオは興味深そうにしながら頷いた。

「へえ、風が、遊ぶ? それは楽しみだ。そうしよう。その頃にまた訪ねるよ」

 

 

 部屋を見回したりする前に、真っ先に、横笛は持っていこうと決めた。

 黒い樹を彫り込んで作られた、フィオリエの横笛。父親が作ったものだ。革のケースは、母親が縫った。

 さて、あとは何を持っていこう? 何を、持っていけるだろう? フィオリエは部屋の真ん中で考えた。

 もともと、そんなに多くの物は持っていない。ベッドと、机と、光と音が注ぐ窓を中心に、大きめの棚には服が仕舞われ、小さな棚には親から受け継いだ古い本と、笛とその手入れ道具、壁には剣を掛けて置く金具に、守護団見習いの腕章。机には羽ペンとインク。彫刻の道具である小刀を、納めた状態で置きっぱなしにしていた。それに、クロヴィスと一緒に練習し競っていた、木彫りの何かが6つ。花や動物や笛になりそこねたものだ。

 本は、もう読んだ。古代語や魔法の本と、歴史の本が二冊、種族についての本、それに、本当かわからない、おとぎ話の本。

 自分の持ち物に加えて、食料や水も加わる。守護団で使ってきたバックパックをベッドの近くに口を開けて置いて、フィオリエはとりあえず、服をあさり始めた。

 

 

 

「フィオリエ…まあ」

 夕方になって、母親がフィオリエの部屋を覗き込んで少し笑った。

 部屋が散らかっていたからだ。一応、本人としては、入れるのをやめた服はたたんでいるし、棚が開けっ放しなのはまだ使うかもしれないからだし、理由があっての現状だ。

 散らかり具合を自覚したフィオリエは少し恥ずかしくなりながら、何? とたずねる。

 母親は、深い緑色の布を差し出した。

「明日はこれ着て行きなさいな。夜や、雨雪の日に、屋根や壁のある場所にいられるとは限らないから。それに、もしも北や南に行く事があれば、ここよりも寒い地もある。

 破けてダメになってしまうか、自分で着ているよりも有用な使い方に出会うときまでは、これをお使い」

 すでにいつも通りの母親にフィオリエは歩み寄って、それを受け取った。軽い。暖かい。

 内心では驚いたし、すごく嬉しかったのを、どうやって表に出せばいいのかフィオリエには分からなかった。

 だから、頷いた。

「うん。明日、着ていく」

 フィオリエには不十分に思えるその反応を、母親は満足そうに受け取った。

「あ。あのさ」

 フィオリエは思い出して、ものすごく現実的な質問をした。

「この部屋、そのまんまにして行っていいの? 片付けたりとか…」

「触られたくないものは、片付けておきなさいな。ベッドや机は、どうしようもないでしょう?」

 たしかにそうだった。母親が意味ありげに、いつまでもフィオリエを見ているので、あ、とフィオリエは圧力の意味を悟った。

「大きいものはそのまま置いていくから、後をおねがいします」

「任せなさい」

 

 

 その夜は、長いようで、早かった。

 父親に何と言うのか、とか、守護団の腕章を返さなきゃいけないことや、朝に水を準備することや、クロヴィスとはもうしばらく会わずにエルミオと二人旅になることなんかが、頭の中でぐるぐるしていた。

 うとうとしながら、フィオリエは思うともなしに思う。

 理由なんてない。ただ、行きたい。それは、「生きたい」に似ている思いだ。何が見えるかも分からない。何も見えないかもしれない。でも何かを見つけてみせる。

 別に、ここが嫌いなわけじゃない。ここにいると、守護団に入って、そのまま一生終わる気がする。それで、都だけ守って、俺は一体何を成したことになるんだろう。何から、守っているんだろう。モンスターや悪魔は警戒しないといけない。そういうことだろう。だけど、そうやって、それだけで、終わってしまいたくないんだ。誇り高き守護団の何を知っているわけでもないけど、違うんだ、守護団がどうとかじゃなくて、旅に出たほうがいいと感じたんだ。

 

 

 きらきら、しゃらら、と輝くような音がしてきた。

 風が、塔で遊んでいる。

 いつも風の塔は輝く音を降らせているが、朝、この時間、この数分間は、本当に楽しそうに遊び、都に、おはよう、と音を降らせるのだった。

 その一刻も前から、フィオリエの目は冴えていた。

 音が聞こえてくると、フィオリエは剣と楽器を携えて、深緑色のマントを着て、バックパックを背負って、きれいに片付いた部屋を出た。昨夜よりも形が整った木彫りの花が、机の上に咲いていた。

 

 父親は支度を整えたところらしかった。

 フィオリエの出で立ちに目を留めて無言で問う。

 フィオリエは腹をくくって、父親をじっと見た。

「今日から、冒険者として、冒険に出ます。旅慣れした人と、はじめは一緒に行きます。

 守護団に入らなくてごめんなさい。い…いままで、ありがとうございました」

 父親はしばらく何も言わないで、フィオリエの身なりを見ているようだった。

「…精霊とは通じ合えるようになったのか」

 またそれか、と一瞬フィオリエは思った。でも確かに、旅立つ前に、精霊とのことは解決しておきたかった。

「まだですけど絶対できるようになります。冒険者試験のときに、風の精霊に指導してもらいました。出来るようになると言ってもらえました」

 父親はまた無言で、立て掛けていたロッドを手にとった。それを腰に携える。そして、玄関へ向かった。

 え、と思いフィオリエは戸惑ってその姿を目で追った。

 父親は、扉を開けて、出る前に、ため息といっしょに一言残した。

「好きにしなさい」

 

 

 残されたフィオリエは、しばらくその言葉を繰り返し思い起こした。

”好きにしなさい”。

 投げやりに言ったのか、もうお前なんかどうでもいいと思ったのか、少しは認めてくれたのか、分からなかった。なんでため息なんか、最後の最後でついたんだ。

 分からないまま、しかし、もう約束の時間だった。

 フィオリエはとぼとぼと歩いて、家を見回して、母親はどこにいったのだろう、と思いつつ、外へ出た。

 

 

 朝の音が溢れていた。風の都は、まだ薄暗いが、山の向こうに光があることを誰もが知っている。

 エルミオはもう来ていた。

「おはよう。ここの朝は素敵だね」

「ああ…うん」

 少し浮かない様子のフィオリエに、エルミオは何も追求しなかった。

「行こうか。まずは山を降りて、ミユ族の街を目指そう」

 冒険のはじまりだ。フィオリエは、興奮するのを感じた。心にひっかかるものは、ひとまず置いておくことにする。

 にっ、とフィオリエは笑った。

「おう! よろしく、エルミオ!」

「ああ、よろしく、フィオリエ」

 そして、二人は都の西出口へ向かった。

 

 

 

 都の門番とエルミオはすでに顔見知りだった。やあ旅人さん、我が風の都はどうだった、などと話し、門を開けてくれた。

「フィオリエ、門出か?」

 門番の一人が声をかけてくれた。都の最年少の名前を、みんな知っているのだ。

「はい。冒険者やってきます!」

「そうかー、頑張ってこい! たまには帰ってこいよ、特に親父さんのためにさ」

 へ? とフィオリエは思いつつ、適当に笑って頷いた。

 門を過ぎると、目の前はもう山道だ。白い石がごろごろしていた。

 

 その、白い石に、何か大きなものが舞い降りた。

 エルミオは一瞬警戒し、フィオリエはぽかんとそれを見ていた。

 それは、翼のある人だった。天使? と、フィオリエは一瞬思ってから、驚愕する。

「母さんっ!?」

 ふふふ、と、フィオリエの母親は楽しそうに笑った。

「あら私ったら、ちょうど、だったみたい。驚いた?」

 母親はまた少し飛んで、二人に近づいた。その時わかったが、どうやら翼は、腕に装着しているだけのようだ。

「私も昔は、召喚術士として旅をしたもの。この翼は腕に装着してるだけなのに、あなたのお父さんは、私を天使と間違えたの。ばらしちゃった、秘密よ、フィオリエ」

 母親は愉快そうに笑った。フィオリエは、いつもよりずっと両親に親近感を覚えた。天使と間違うなんて、そりゃ、そうだ。

「母さん、冒険者だったの?」

 思わず言ったフィオリエに、いいえ、と母親。

「母さんが冒険していた頃、冒険者という制度はまだできていなかったの。懐かしいわ」

 おぉ、とフィオリエは咄嗟に計算する。歴史の本で読んだ、たしか、冒険者は800年だか900年だかにもうあったはずだ。今、大体1300年。なんてことだ。エルフってやばいな、と、自身もエルフだということを棚に上げてフィオリエは思った。

 驚きを隠しきれないフィオリエに、母親はまた笑う。活き活きしていた。久しぶりに召喚術を使ったからだろうか。

 

 フィオリエ、と母親は言った。

「自由でも、迷っても、自分であることを忘れずに、しっかりやりなさいな」

 フィオリエには、よくわからなかったが、とにかく、冒険を全力で楽しんで頑張ってやろうと思った。だから、おう!と、元冒険者の母親に頷いた。

 それから、と、母親は、背負ってきていた包をフィオリエとエルミオに渡した。

「朝ごはんにどうぞ。フィオリエをよろしくお願いしますね、エルミオ、不思議な旅のお方」

「ありがとうございます」

 エルミオは微笑んだ。

 フィオリエは包を持って、嬉しくてわくわくして仕方がない気持ちを笑顔に溢れさせた。

「ありがとう! いってくる!」

「いってらっしゃい」

 

 やがて、風の都の音は遠くなる。

 

 

 フィオリエの旅立ちは、そんなものだった。

 

 忘れた頃に、あの場所の夢を見たことがある。

 都のエルフが、子供時代に訪れ、自由を見つける場所。

 道を選び、決断し、自由とは自分の心だと気がついた大人たちにとっては、懐かしい広場。青っぽい葉を茂らせた木がぱらぱらと生え、白めの土がたまって所々に草花が顔を出す。

 今日も、風が吹いているだろう。風の塔がカロンカロン、リンリン、シャラシャラと鳴り、その広場だけでなく、都中に音を降らせる。

 あの色合い、青、銀、白、空、太陽のような色の花、そして風の音、クロヴィスがあの日吹いた曲と、風の塔の合の手、さあっと吹き抜ける風の感触。「ばかやろう」の笑顔と笑い声。

 最後のため息。結局うまく言えなかった自分の心。

 母の言葉。父の言葉。理由も真意も訊くことはできない。

 だが、全てが懐かしい思い出だった。

 今、帰るとすれば、少しの勇気だけで「ただいま」を言える。

 

 

 

「風の音」fin.

 

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◆おまけ◆

「別れ際になんて言ったの?」

 その夜、尋ねられた父親は、渋い顔をした。

 母親はそれを見ただけで悟った。

「大丈夫。私たちの子よ。私のように数十年か数百年遊んだら、ふらっと帰ってきますよ。

 もしかしたら、風の噂で名が届くくらい、有名になるかもしれない。あなた、そのときには、ちゃんとおかえりって言ってあげてくださいな」

 やはり父親はため息混じりに言った。

「そうだな」

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