R・E・Asterisk -Ⅱ.探求の都市
アスク《探求》、メア国のなかでも魔法研究が盛んな都市で、
レンとエナはある魔法研究員を訪ねようとするが…。@1809年9月下旬頃~
REAsteriskⅡ( 1 / 2 / 3 ) Ⅲ.家出魔法使い へ
そこに、はじまりの樹が生まれた。
根が大地を掴み、枝が空を押し上げ、その世界は始まった。
はじまりの樹の《葉》から生まれた、神と呼ばれるものたちと、精霊とよばれるものたち。
はじまりの樹の《実》から生まれたヒト――ヒューマンやエルフ、ドマール、天使といった種族や、動物と呼ばれるものたち。
はじまりの樹の《息》、世界に満ちるマナは、生き物たち自身や、その心に応じて姿や性質を変える。
そのマナの性質により、長い時間を経て、意図せずヒトの心から生まれたもののひとつが悪魔であった。それは体を持たないため、滅ぼす方法が限られていた。天使族は悪魔を怪物の姿として具現化させ、それを他種族のものが剣や魔法で討った。
歴史の中で、怪物は《魔物》、それらや悪魔自体を討つ者は冒険者《悪魔を倒す者》と呼ばれるようになった。
***Ⅱ.探求の都市***
アンバー村を後にしたレンとエナは、魔法研究都市アスクへ向かった。
田舎から、魔法研究都市へ。がたごと道は次第に綺麗になり、馬車の速さも上がった。
少しうとうとしていたレンが、ふわあ、と大あくびをして目をこすった。フードを脱いで伸びをする。肩の少し上で揺れる淡い金髪が乱れていた。白系の半そでハーフローブの、袖や裾にうすく光を連想する橙の装飾があり、一方でアームカバーとズボンは黒でシンプルだ。この若い魔法使いの青い瞳は、ディル族の特徴をもち、くっきりしていた。エルフ族との混血である彼の耳は少し尖っている。
「もう着くぞ」
隣に座った剣士が、レンに声をかけた。この剣士、エナは黒系の装備だ。軽い黒の革鎧、肘から手の甲にかけては茶色の小手。ダークエルフ族の浅黒い肌と、地面と水平にヒュンととがった耳。一つに結んだ髪も黒だから、全体的な印象が黒い。背は高くなく、一見すると少年にも間違いそうだが、振る舞いからそうではないと分かる。事実、レンよりも多くの経験を積んできた冒険者だ。
ふたりは、本当は、メアソーマへ行ってオルトから薬草を買うつもりだった――これはエナの用事だが、まだ急がないので、寄り道をすることにしたのだ。
「ウィザード・ラーヴィなら、君たちの助けになってくれるかもしれません」
アンバー村で共闘した、『旋風』同盟のケインから、そう教えてもらった。レンが「古代語辞典を作りたい」から、その助けに――と、これは建前。レンの本音は…勝手に増えていってしまう魔力をどうにかする方法、対処法の手がかりが掴めるかもしれないからだ――エナには、このことは言えていない。
それぞれ目的を持ちながら、パーティを組んで約2か月。魔法研究都市アスクへやってきた。
*
アスクの道や建造物は、黒い石の物が多い。アンバー村では土の道ばかり歩いていたので、足の下が固く感じられた。
ふと、レンは歩を緩めた。町の広場の、魔法のオブジェクトに目を惹かれたのだ。澄んだ人工池の中心には黒色の石を削った幾何学的な塔が、水晶球を抱いて凛と建っている。周囲をいくつかの光球が、尾を引きながら優雅に飛び回って、塔と池の底のガラスが光を反射しきらきらと輝いている。覗き込むと、池の底いっぱいに、複雑な魔法陣が描かれていた。
(これは、どういう魔法陣を組み合わせて…――)
数秒の後、あ、と、レンは我に返る。
「ごめん」
顔を上げると、エナが隣で待っていた。いや、とエナはまったく気にしていないふうだ。
「もういいのか?」
「うん」
「はぐれるなよ」
「わ、わかってるよ」
エナが待ってくれていなければはぐれていたところだ。分かっていたので、レンは歯切れ悪く答えた。
ただ歩くだけで、魔法使いや研究職らしき人をよく見かけた。藍色のローブの魔法使い、少しくたびれた小人族の眼鏡おじさん、使い魔らしき生物を腕にしがみつかせたまま歩いていく男。
レンとエナが会おうとしている、ラーヴィ、という人も魔法研究員らしい。すでに研究施設には行ってみたが、不在だった。施設の職員に、図書館にいるかもしれないと言われて、街の外れからまた違う方向へ歩いているところだ。
「ん、あれ? オルトさんか?」
エナが不意に立ち止まった。メアソーマまで会いにいくはずだった人の名前が飛び出す。
え、とレンも視線を追うと、なにかの店から出てきた、ふわふわした金髪のエルフ族がいた。一筋長い髪が背で揺れる。
ふたりは顔を見合わせて、遠ざかっていく背中に呼び掛けた。
「オルトさん!」
エナの声にオルトが振り返った。明るい空色の目を丸くして、ぱっと笑顔になる。
「あっ、エナ! レン!」
年上のはずの彼は、低い背丈で、ゆるくてあどけない子供のような笑顔だ。これでも、レンやエナが生まれる前にこのメア国で起こった、悪魔との戦いに参加した変身術士らしい。
「久しぶりー。元気そうだね。元気だった?」
「はい、おかげさまで」
エナが頭を下げるので、レンもどきどきしながら一緒に頭を下げた
「オルトさん、今、お忙しいですか?」
「ううん。どうしたの?」
「あの薬草のことで相談があるんです。急ぐことではないんですけど」
エナの言葉にオルトは、んー、と考えた。そしてにこっと笑う。
「じゃあ、半月まん! 半月まん食べよう? いい?」
レンはどういうことだか分らなかった。エナは一泊考えた後、頷いた。
「あ、はい。じゃあそこでお話を」
「うん!」
なるほど、半月まん、こと、半月饅頭のお店があるらしい。
「薬草を自分で取りに行こうと思うんです。オルトさんに毎回お時間を割いて頂くのも、申し訳ないですし」
3人、横並びで長椅子に座って半月まんを頬張った。売り場と、その近くに黒い長椅子が3つ並んで、そこに布の屋根と棒きれの柱が陰を作っている。
ふうん、とオルトは半月まんをもぐもぐしながら、んー、と考える。飲み込んでから、申し訳なくないけど、と言って少し首をかしげた。
「でも、あそこは…オレの、うーん…オレが、一番…」
言葉の断片から推測したエナが、あ、と付け加えた。
「もちろん、オルトさんさえよければですよ。なにか、不都合なことがあるなら…」
「ううん、不都合じゃないけど、うーん…一回、途中まででも一緒に行ってみよっか!」
妙な言い回しに疑問符を浮かべながらも、レンとエナは、オルトと共に薬草を取りに行くこととなった。
***
シトールイという、国内でも極東にある村の、さらに東の森。
未開の森は、どの国地域であろうとも、“精霊の森”などと呼ばれる。人の在る場所が街や道なら、精霊の在る場所が未開の地だ。下手に魔法を使い騒げば、その地の精霊に粛清される。
シトールイの東にある精霊の森、その手前は、まるで人を拒絶するかのような崖となっていた。
この崖を見上げている今は、オルトと会った翌日だ。
「アスクとグラスみたいな大きい街のは一般人でも使えるけど、オレ、一般人だから、グラスまで飛んだあとは、《転移先》使えないんだー、ごめんねー」
グラスまで来たあとに、オルトが謝った。そこから目的の場所までがまだ数時間かかるということで一泊し、今日、午前中のうちに精霊の森の手前まで来たというわけだ。
「これ…」
「薬草のある目的地って、もしかして、この上ですか…?」
うん、とオルト。
「オレはいつも飛んでいくんだけど、徒歩で行ける道もあるんだって」
オルトが妙な言い回しをしたことに納得した。回り道があるとしても、飛んでいくのに比べたら非常に時間がかかるだろう。
「行ってみよー! ついてきて!」
遠足にでも行くような気楽さでオルトは言った。足取りも軽い。
オルトに先導されて、レンとエナは崖に近づく。
岩の壁がぽっかりと口を開けていた。自然にできたものだろう。古びているが、急な斜面に石を詰んだ足場や、ちぎれてしまっているロープがある。
「ありゃー、随分、人が通ってないみたいだね。前は使ってたはずなんだけど」
「何かあって使わなくなったんですかね。落石とか、魔物とか」
エナの言葉にオルトは少し首をかしげたが、躊躇うことなく、次にはライト《照らす光》を唱えていた。オルトを中心に数メートル範囲が明るくなる。エルフ系の種族は暗闇でもかなり見通すことができるが、光は大抵の魔物を遠ざける効果もある。
「行ってみたら分かるね。行こっかー」
エナはやや心配そうにした。なにしろ、四日前には『旋風』のケインたちと悪魔討伐があったところだ。危険な戦いが続くのは、気持ち的にもしんどいものがある。
「探検だな!」
レンはそれに気づかず目を輝かせた。アンバー村でのことのように悪魔が関わると及び腰になるが、旅したりダンジョンに潜ったりすることは、わくわくするのだ。
その様子にエナも、そうだな、と、ふっと笑った。
「俺もライト使っとこ」
レンが集中する一瞬の時、エナが呟いた。
「切り替え早ぇのな、意外と」
「ん? 何か言ったか?」
「いや、冒険者向きの性格だなって。行こうぜ」
「おう!」
オルトを先頭に、あまり距離を置かずエナ、レンと続く。元々人が通っていただけあって、それほど歩きにくくはなかった。
木で補強されたトンネルを、数分スムーズに歩き進み、不意にオルトが、あ、と言って止まった。見ると、道が瓦礫でふさがっている。しかしその傍らには、新たに掘られたのか、違う道があった。
「あっちから行けるんでしょうか」
レンが通れそうなほうの道を見る。
「うーん、…。…ちょっと待ってね、いいよって言うまで行かないでね」
オルトは一歩進んで、思い出したように振り返った。
「あと、しーっ、だよ」
ひっそりした声で指を立てた。静かにしていろということらしい。
オルトは瓦礫に近づいて、《照らす光》の範囲を広げ、道の崩れたところを照らす。しばらく観察しているようだったが、やがて《照らす光》の範囲をすっと小さくした。今度は通れる道へ向かう。
ふと、レンがエナをつついた。なんだ、と表情だけで問いかけると、レンはオルトを見つめたまま真剣な表情で言った。
「すごい。コントロール上手すぎる」
「…は?」
「ライトの」
「…ああ、…ふうん。なあ、あの崩れた壁のとこ、違和感ないか?」
エナがすぱっと話題を切り替えると、レンは素直にそれに乗ってくる。
「え。うーん…?」
「俺も分かんねえけど、戦闘の痕って可能性もあるよな」
言われて初めて気がついた、とレンの表情が物語った。
突如、道の先に少し踏み込んでいたオルトが戻ってきた。足音を立てないように、しかし大急ぎで。
「出よう、出よう! 行って!」
ひっそり声と身振り手振りで、レンとエナを引き返すように促した。
出入り口に戻った頃には、オルトとレンは少し息を切らしていた。
「はあ。目が合っちゃった」
オルトが恐ろしいことをさらりと言う。
「えっ。何とですか?」
レンが少々頬を引きつらせて尋ねた。
オルトは首をかしげる。
「なんだろ? 魔物だけど、一体じゃなかったから、やめとこうと思って。けどちょっと、数えようとしたら、目が合っちゃった。へへへ」
「えぇ、追ってきてないですよね」
レンは心配そうにしたが、オルトはまたも首をかしげる。
「分からないけど、確認しに戻るのは怖いからやめとこうねー」
そうですね、とエナは頷いた。
「他に、道はあるんですか?」
「ううん。オレはもう知らない。とりあえず、今日はオレがさっと取ってきてもいい? 追ってきてたらいけないから、さーっと。隠れて待っててくれる?」
「分かりました」
エナに続いて、レンも頷いた。
「うん、じゃあ、行ってくるねー」
にっこり笑ったかと思うと、オルトは二人に背を向け、距離を取った。変身を行う際の配慮なのだが、レンとエナが知る由はない。
オルトの体を白い羽毛が包み込むと同時に体が膨れ、腕はしなやかに大きく伸びながら一瞬で翼を形作る。ふわりと長い尾羽が伸び、白に近い柔らかな灰色の脚が細く伸びる。人をひとりふたり乗せることが出来そうなくらいに大きな純白の鳥が、レンとエナの目の前に現れた。
変身が完了するや否や、白い鳳の姿となった変身術士オルトは羽撃く。風がレンとエナの髪をなぶった。鳳は空へ、風を捕まえ、飛んでゆく。
ふたりは、しばらくその姿から目が離せずにいた。
先に我に返ったエナが、はっとしてレンの肩を叩く。
「おい、隠れとくぞ」
レンはまだ空を見上げたまま、何度か頷いた。
仕方がないので、エナはレンの腕を掴んで引っ張る。
「行くぞ」
「…ああ…」
ようやくレンも足を動かした。上の空で歩くものだから、すぐに躓いた。
うわ、と、エナに支えられて踏みとどまる。
「いい加減しっかりしろ。せめて隠れてから惚けろよ」
「ごめん」
エナの声に苛立ちを聞き取って、レンは我に返る。やっとまともに前を見て歩き、ふたりは近くの木立に身を隠した。
「ああいう変身魔法って、もっと、こう…決死の覚悟でやるようなやつだと思ってたんだけど」
若干控えめに、しかしやはり我慢できずにレンが語りだした。ちゃんと声は落としている。エナは止めず、なんとなしに聞いている。
「息をするように変身するのは、勉強したり練習したりして出来るようになることじゃなくて…生まれつき、その才能があるとか、物心つく前に何かあったとか、そういう特別な場合しかない、って、教わったと、思うんだけど…」
だから、ほら、とレン。何が、ほら、なのかとエナは目で問うた。
「多分一番有名なのは『緋炎の月』のロードだよ。炎の鳳に変身するって聞いたことがある。でも、息をするように変身するなんて、聞いたことないから…」
もどかしい様子で語っていたが、言葉を探すのを諦めたようで、レンは力を込めて結論を述べた。
「すっげえ。オルトさんすっげえ」
そこからさらにマニアックな話が始まった。エナはついていけないが、たまにためになる知識もあるし、別に苦ではないので、いつも聞き流している。
「そんなに勉強するの大変だったろ」
喋っている隙間に、エナがねじ込んで尋ねると、レンはちゃんと止まる。
「えっ、いや、あんまり大変とは…思ってないかも」
「ふうん、好きこそ物の上手なれ、ってやつか。どっかで誰かに教えてもらったのか?」
うん、と。
「父さんと…魔法の先生みたいな人がいっぱいいたから」
「師匠みたいなもんか」
師匠…レンは曖昧に頷いた。エナの言う師匠とは、イメージがちょっと違うかもしれないなと感じたのだ。遊ぶように楽しく魔法を習っていたのだから。
「うん、多分」
木立の間から洞窟のほうを警戒しながら、レンは思うともなしに思ったことを口に出した。
「エナは辞めたいと思ったことないの?」
「ん、冒険者を?」
「うん」
「ねえな」
即答だった。すごいなあ、と、思いながらも、ふうん、と言うだけでレンは頷く。
エナはややあってから首をかしげた。
「んー。辞めるとかは考えねえけど、どうすればいいかって考えることはある。全然わかんねえ時もある。今も、ずっとわかんねえこともある…ま、とりあえず、経験積むしかねえかと思ってるけど」
ふうん、と、再びレンは相槌を打った。よく、分からなかった、
正直、エナが辞めたいと思ったことがあるほうが普通じゃないかとまで思っていた。だってエナは…レンと会う三、四年前に、師匠を亡くしている。
病魔呪い、というものを、追っていた悪魔から受けたそうだ。エナもまた呪いを受けたが、これは死の呪いではなかった。亡くなった師匠の伝手で、優秀な魔法使いたちからの助けを得られたという…オルトもまた、その時から助けてくれている人だ。
おかげで呪いはかなり効果が下がったらしい。今は、8日に一度著しい精神的不調を来す、という程度になっている。その8日に一度の際にも、特別な魔法をかけてもらうか、ある薬草を使うかでかなり不安感や焦燥感を軽減できるというが…十分嫌だと、レンは思う。
冒険者の王手同盟『琥珀の盾』の変身術士オルトは、その薬草を格安で購入させてくれる(あげる、と言われたが、それは悪いのでエナから、払う、と言ったそうだ)。
今、採りにきた薬草が、それだ。
「辞めたいって思うことがあんの?」
エナにきかれて、レンは思考の海から戻ってきた。やや口ごもる。
「…そりゃ、まあ、あるよ。戦うのも悪魔も…。…魔法を色々知れるのはいいけど…なんか…うん…」
「旅は楽しそうだけど、戦うのは嫌いっぽいもんな」
「あ、うん」
「でもレンは冒険者に向いてる性格もってると思うぜ。切り替え早いって大事だと思う」
「え、俺、切り替え、早いかな?」
「ん。いつまでもくよくよしねえってのは、いいぜ。んで、嫌じゃない間は俺と組んでもらえたら助かるけど」
レンは、しばし困惑した。
「切り替え、…あっ、気持ちの?」
そこでエナは、何か噛み合っていなかったと察した。
「なんだと思ってた?」
「魔法の、攻守の切り替え」
おい、とエナは吹き出した。
「なんでだよ。お前ほんと魔法オタクだなー」
「いやぁ」
「褒めてねえよ」
笑って小突くとレンも笑った。が、洞窟のほうへ視線をやってふたりは笑いを引っ込めて息を潜める。何かが出てきていた。人ではない。
「…トカゲ?」
レンがひっそり言うと、いや、とエナ。
「元はそうかもしれねえけど」
「なんか、竜みたいでかっこよくないか?」
「へえ、竜族ってあんなやつ?」
「見たことはないけど、本に書いてあった。なんかそんな感じな気がする」
とはいえトカゲだった。大きくてゴツゴツした、長さ短めのトカゲだ。全身焦げ茶色っぽく、チロチロと見え隠れする先の割れた舌は黒っぽい。
「なんかもうちょいサイズ小さかったら倒せる気がする」
「いや、トカゲの速さと防御ナメたら痛い目みるぞ」
「え、そうなの?」
「ああ。それに、再生付きのやつとか、トカゲ型のやつだとありうるからな」
レンは嫌そうな顔で表情を固くした。
「あと、複数いるって言ってただろ。手を出すのは、ちっとまずい気がする」
ふたりはおとなしく息を潜めてオルトの帰りを待った。
トカゲは、舌をチロチロさせながら周囲を警戒していた。長い間そうしていた――レンには長く感じられたが、実際は数分程度だ。
ようやく洞窟に帰ってゆく。姿が見えなくなって数秒、行ったな、とエナ。ふう、とレンは息をつく。
それからすぐに、オルトが戻ってきた。
降り立ちながら人の姿へ戻ってゆく。まだ翼の両腕が、空気を掴んで勢いを弱め、人の両足が大地を踏み、次の瞬間には翼は腕になる。
ふたりが木立を出てオルトを迎えると、ただいまー、とオルト。ふくらんだ布袋から薬草が覗いている。足元に落ちたそれを拾いながら、オルトは謝った。
「ちょうど魔物がいて降りてこれなかったんだ、待たせてごめんね」
そして目を輝かせて尋ねる。
「あれ、竜っぽくてかっこよくなかった?」
レンが大層喜んだ。
*
結局、薬草はこれまで通り買わせてもらうことになった。
魔法研究員ラーヴィが戻ってきていることを期待して、再び研究所を尋ねた。市街からは離れ、黒い石の道を行った先、独特の静けさの中に佇む建造物の群れ。その敷地に立ち入るための検問のような最初の入口は、意外とすんなりとレンやエナを通す。
「オレは待ってるね」
建造物群に近づく前にオルトは、いってらっしゃーい、と手を振った。
敷地内に入ると、ラーヴィが使っているという建物を目指す。
「広いよなぁ」
レンが言う。煩わしさからではなく、ただただ魔法研究所の中にいるという高揚感からの言葉だ。
「そうだな。ラーヴィさん、居るといいな」
「少年たち、ラーヴィに用事かい?」
つい今すれちがった男が、思わずといった感じで呼び止めてきた。
「残念だけど、あいつは今日帰ってこないと思うぜ。来週ならいるんじゃないか」
整った顔立ちの男だった。少し高い位置でひとつに束ねた黒髪が、うなじを掠めた。青年、より少し年上程度に見えるが、くっきりした水色の瞳に、少しとがった耳からして、ディル族の血が混ざっている。エルフ族ほどではないが、年齢は見た目では分からない。
くすんだ水色のチュニックに、そのへんに放ってあったのを履いてきたようなくたびれた黒っぽいズボンと靴。唯一立派なのは、ベルトに下げた杖。片手で扱えるハーフソードほどの長さ。艶やかな、自然な白色の木の、くるりと曲がった先端の内側に、整えられた大きなスピネルが赤く輝いている。
「探求心てのはその時に満たしたいものだろう。熱心な若人くん、俺で答えられることなら答えるが、どうかな。ちなみに専門は人工精霊だ!」
「人工、精霊…?」
目を輝かせたレンを、即座にエナが小突いた。
「おい、オルトさん待たせてるんだからな」
「あっ、うん。えっと、ラーヴィさんのことは『旋風』のケインさんから紹介されて、俺の知りたいことを知ってるんじゃないかって…」
本音と建て前をどう言えばいいかと、レンは考える。本当に“知りたいこと”を、エナには話していない…建前(半分は本気だ)だけを、話してみることにした。
「古代語をたくさん知りたいんです。いつか古代語辞典を作りたいと思ってます! だから、えっと、ラーヴィさんにも、お兄さんにも、聞けたら嬉しいです」
古代語辞典、と聞いた男の目がこどものように輝いた。
「そりゃあ、ロマンがあるな…!」
うんうんと頷き、顎に手を置いて語る。
「ロマンと実用性は、どこかでつながっているものだ。どちらも人が欲する先にあるものだからな。古代語辞典、俺も一度は考えたことがある。もっとやりたいことが出来て、放ってしまったが…そうかそうか、じゃあ一緒に行こう、魔法使いくん。ラーヴィと繋がりを持っておいて損はない!」
「えっ、一緒に…?」
「実は、これから会いに行くところだったんだ。仕事でな。だが仕事なんてのはやらなきゃならない事だから、いつでもできる。そんなことよりも、少年の探求心のほうが世界にとって重要なのだ!」
びっ、と虚空を指さすお兄さん。わあ、と瞳を輝かせるレンと、魔法オタクを冷静に見ているエナ。
お兄さんは茶目っけのある笑顔で「ということで」とふたりに向き直った。
「俺はフランツ。よろしくな! ラーヴィのところに行くにはちょっとコツがいるから、頑張ろう!」
コツがいる、という言葉に疑問を抱きつつも、レンとエナも自己紹介して、オルトのところへ戻ることになった。
*
一方――…。
魔法研究の都、探求の都市、アスク。はじめてここを訪れた少女がいた。空色のワンピースのようなチュニックに、長い金髪。エルフ族の彼女の耳はひゅんととがっている。アンバー村でレンたちと出会った、アースだ。
彼女の手を引いて連れてきてやったのは、不愛想そうな男。淡い金髪は一筋だけ長く、顔の左側で木のビーズに束ねられている。灰色の外套が厭世的な雰囲気を助長していた。彼は、アースを連れて、空を飛んでやってきた。常人ではありえないが、アースはそういったところに頓着がなく、ただお世話になったと感じていた。
さて、アスクの研究施設のあるエリアへの出入りは制限があるが、周囲の居住区には特別そういったものは無い。ある程度発展した町村ならある塀の代わりに、目視は出来ないが魔法壁が張ってある――メア国では珍しいことではない。きちんと出入り口から往来せよという、極めて常識的な無言の圧力だ。
街の外へ降り立ったアースは目を丸くして、見えない壁を感じ取った。
「これじゃ、入れないね」
「出入り口がある」
「どこだろう。…背の高い家がある。あれが、塔っていうの?」
「あれは高級宿だ。一部4階建てで飛び出ているだけだ。おい、こっちだ」
ニオがさっさと歩き出す。アースは街の中に目をやりながら、その背中を追う。
「そうなんだ…! 中はどうなってるんだろう。あそこからなら街が全部見えるのかな」
「無理だな。アスクは広い」
「じゃあ、アンバー村みたいに村一周のお散歩が出来ないね」
ニオはため息混じりに言った。
「日が暮れる」
「一日じゃ回れないの?」
「そうだが、そうじゃない。早く行くぞ。あんたここに何しに来たんだ」
「レンとエナを探しに来た」
きっぱり真っ直ぐ答えて、うん、とアースは頷いた。
「ごめん、初めて村から出たから、すごく、どきどきしてる。レンとエナを探そう」
「手掛かりはあるんだろうな?」
ええっと、とアース。
「ラーヴィっていう人に会いに行くんだって。有名な人みたいだから、誰かにきいたら……ニオ、知ってるの?」
「いや、ああ……研究施設のやつらなら、行方を知っているだろう」
早速の手がかりに表情を明るくして、アースは町の入り口へ足を進めた。
門をくぐり、黒い石畳の道をいくらか行ったところで、ニオを振り返った。
「ねえ、ニオ、研究施設の場所、知ってる?」
苦い顔をして口を結んで、やがてため息とともに、「こっちだ」とニオが先導した。場所を教えるだけだからな、と念を押した。
「ありがとう。ごめんね、何にも知らなくて」
ついて行きながらアースがしゅんとすると、ニオはちらと振り返り、もごもごと、
「初めての街が分からないのは当たり前だ」
と、だけ言って、また口を結んだ。
メア国のなかでも特に魔法使いの多いアスクは、過去に魔法の誤射や、なんらかのいざこざで魔法による被害が出たことがある。いつからか、街のほとんどの建物や、主要な道は、黒い石で造られた。メア城の城壁と同じ、魔法に強い素材だ。
魔法研究が盛んで、戦闘から日常に使う魔法道具や新しい呪文、魔法陣、その改善など、有用な発明・発見もある。
その研究が行われる施設群が、街を通り抜けて、黒い石の道を行った先にぽっかり現れる。道を行く前に、ニオが立ち止まった。
「場所は教えた。行ってこい」
「え?」
「俺はここで待つ」
アースは首を傾げた。
「私がひとりでどこかに行っちゃうとは思わないの?」
「ここしか道は無いからな。俺は研究者たちは好かない」
「そっか。わかった」
アースはやや緊張した面持ちで、しかしアスクに来た時の瞳の輝きを保ったまま、踏み出した。
そして困った顔をして戻ってきた。
「ラーヴィさん、いないんだって」
ニオは何も言わずに先を促した。
「レンとエナは、来たみたいだけど、どこに行ったかはわからないって。図書館には、寄ったかもしれないけど……」
どうしようか考えこむアースに、ニオは小さく息をついた。
「ここまでの手がかりに感謝する。あとは俺が探す。……家にはひとりで帰れるのか?」
小さなこどもにかけるような言葉だが、この時のニオに他意はなかった。アースもまっすぐ受け取り、真剣に首を横に振った。
「帰らないよ、まだ。私も会いたいもん。図書館に行ってみようよ」
「……用事を思い出した」
「え?」
ニオが突然言うので、アースは目をぱちくりした。
「用事がある。あのふたりを見つけたら知らせてやるが、俺は用事があるからここまでだ」
「あ、うん、そうなの? ありがとう……?」
「図書館と、あと冒険者がよくいく場所といったら、宿、ギルド、それから転移先魔法陣だろう。寄ってみろ」
「うん、わかった」
「人気の無いところや小道には入るな。大事なものは盗られると思って警戒しておけ。見知らない奴は契約者だと思え」
「うん……? 気を付けるね」
極端な警告に少し首をかしげながらも、心配してくれているようなので、アースは素直にうなずいた。
「大事な用事なんだね、がんばってね。ここまでありがとう」
「……あー、じゃあな」
「うん、またね」
口を結んでニオは背を向けて、大股で三歩行かないうちに、振り返った。
「図書館はあっち、ギルドもあっち、転移先魔法陣はむこうだ。宿は何か所かあるから探せ」
いちいち指をさして示して、じゃあな、と今度こそニオは大股で歩き去る。わかった、ありがとう、とアースももう一度律儀に返した。