エナ -師匠のこと Ⅳ.強い人
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メアソーマは城下町だ。といっても、城と町の間には距離がある。街中を一本、川が流れていて、城側に居住区はほぼない。
城は城の魔法使いが、街は街魔法使いが魔物除けの魔法などを展開している。城は他にも色々な防御の魔法を常に展開しているという。
「一応、城での戦闘も想定してあるんじゃない。実際、あったし。メアの場合は特に、城が狙われるだろうし」
賑やかな街中、居住区に向かって歩きながら、リーフは素っ気なく言った。
ああ、とエナは頷く。城にあるという『神の石』のことを、リーフは言っているのだ。王族と、最高位の魔法使いが、その石を守っている。それを守ることを任される人物が、国精霊――国と同じ範囲を守っている精霊――に認められ、王族であることができる。メア国民としては当然の知識だった。『神の石』は巨大なマナの石なのだと言われている。扱うことができれば、とんでもない大魔法が使えうる。
「リーフさんが参加したっていう、戦いのときも、街が離れてたおかげで被害がなかったんですか?」
うん、と適当な即答。それからリーフは加えた。
「多分。僕は下っ端だったからそういうこと気にしてなかったけど、戦いの後の街はなんともなさそうだったよ」
「これから行くところも、その戦いで知り合った人のとこですか」
「うん。家主はヒューマン族だけど、多分元気だと思う。まあ、『盾』の人が誰かいるんじゃないかな」
その戦いとは、少なくともエナが生まれる前だ。20年以上前。
ともかくふたりは居住区へ入り、また少し歩いた。リーフは迷うことなく訪ねるべき家を見つける。古くて暖かい木の家だ。家の周囲はきれいにされていて、玄関では青い鳥の飾りが迎えてくれた。
「こんに――…」
リーフがノックしようとした瞬間、扉が開いた。
見知った顔が現れて、エナは目を丸くした。
「リオナさん?」
あのレベル144のセルヴァと、ヴァース村に住んでいる人だ。クッキーをもらったことがある。どうしてここに。
なにやら心配そうな表情だったリオナは、その見えない目を閉じたまま、あら? とエナに目を向けるような仕草をした。
「エナくん。…では、リーフさん?」
「はい。…覚えていて、くださったんですね」
本当に意外だという気持ちが滲んでいた。
「ええ、セルヴァや、フィオさん、オルトさんと、あなたのことを話すことがありました。それに、エナくんと会った時にも」
リオナがにこりと微笑をむけた。エナは、ええと、と考える。つまり、リオナとリーフも面識があった?
(でもそうだよな、セルヴァさんって『琥珀の盾』、らしいもんな…『盾』もリーフさんも例の戦いに関わってたんだもんな)
お元気そうで、などと挨拶を交わしたあと、リーフはたずねた。
「オルトさんにお会いしたいのですが、どちらにいらっしゃるかご存知ですか?」
「ええ、もうすぐ、来られますよ」
え、とリーフ。
「ここに? もうすぐ、ですか?」
はい、とリオナは笑った。
「ちょっとしたお茶会をするんです。よろしければリーフさんも、エナくんも、ご一緒にいかがですか?」
そうですねえ、とリーフはしばし考えた。美味しいお菓子に釣られて即答しうる、と思っていたエナは、まだ小さい子供をもつ保護者のような気分になった。さすがにあの戦いのあとで、お茶会に参加する気分にはあまりならない。とはいっても…――リーフの返事は予想していた。
「宿だけとって来てもいいですか?」
なるほど参加は前提で、その前にやっておくことを考えていたようだ。
リーフはリオナに参加者を聞いて、エナを振り返った。
「僕は宿を取りに行くから、お茶会のためのお菓子を買ってきて」
確かに、参加するならば、なにかあったほうが良さそうだ。
エナが頷く間に、リーフが付け加えた。
「お茶会だからな。女性が4人と、オルトさんだ。メンバー考えて買ってくること」
「好みを知らないので難題ですけど、変なものは買ってきませんよ」
「違う、女性が主な会だって言ってるんだよ」
リーフに釘を刺されてエナは渋い顔をした。そういうのは、苦手だ――女性だとか男性だとか、そりゃ常識の範囲内で気を遣うことはあるが、「女性の好きそうな」お菓子を選ぶ、と思うと、億劫だ。なんだか苦手意識がある…初めて組んだパーティの解散理由なんか、三角どころか四角くらいの関係のせいだった。
「…分かりました」
なんか見た目華やかだったり可愛かったりするやつを、店の人に選んでもらうなり何なりしよう…エナは決めて、賑やかな街中へ出て行った。
(俺が宿でリーフさんがお菓子でいいのに…これも修行のうちってことか。そういうのいいんだけど…いや文句言うまい)
*
「悪魔と戦ったのですね?」
リオナが尋ねた。この盲目の魔法使いは、マナや魔法なんかを、普通よりもよく感じ取るらしい。
リーフは頷いた。
「ええ。それでオルトさんに、診ていただければと思いまして」
リオナは一時考え込んだようだった。
「セルヴァにも声をかけてよろしいでしょうか?」
「…魔法使いのリオナさんのご判断でしたら、よろしくお願いします。ご迷惑おかけしてすみません」
「いいえ」
リーフは頭を下げて、それからふと、尋ねた。
「リオナさんは、僕の気配を感じて玄関を開けたのですよね? エナではなく」
リオナはゆっくり頷く。
「ええ」
リーフの口元にどこか満足そうな笑みが浮かんだ。
*
結局、無難な焼き菓子を選んだ。ただ、家ではあまり作らないであろう、サクサクの軽い食感のクッキー。メレンゲがどうとか、店の人が言っていた。どんな種族・年齢の人でも、そんなに硬いものではないから食べやすいだろうとも考えた。
お茶会に来たのはやはり『盾』の関係の人たちだった。リオナと、リオナの娘、旅医者のアリア。家の主であるウォーレスの妻シアーナと、その娘のリシア。冒険者はひとりもいない。
女性陣が楽しげに準備するのを手伝いながら、エナは家の手伝いをするときのことをなんとなしに思い出していた。
「あら。オルトさんが到着します。リーフさん、お迎えをお願いできますか?」
リオナに言われて、リーフはオルトという人を迎えに外へ出ていった。盲目のリオナはどうやってか人の気配か何かを感じ取るらしい。
(すげえ、リオナさんってどれくらいの距離で人のことわかるんだろう)
あとで聞いてみようかな、と思いながら、今度は玄関のほうへ目を向ける。
オルト、という人。数回、リーフがその名前を口にするのをきいたことがあった。リーフがお世話になった人。『琥珀の盾』の魔法使い。
なんかすごい魔法使いなんだろうな――どことなくリーフに似た気だるい表情と、根は真面目な、飄々とした人を思い浮かべた。次に、あのLv144のセルヴァのような人が思い浮かんだ。それから、前衛も出来るような、一見魔法使いに見えないようなディル族を思い浮かべた。
やがて玄関扉が開き、リーフが戻ってきた。エナは一緒にやってきた魔法使いを、思わずまじまじと見る。
「おじゃましまーす! わあ、いい匂いがする」
ふわふわした金髪頭。輝く笑顔。白シャツにちょっと洒落たベスト。一言で言えば、子供っぽい。童顔と、言動のせいだろうか。しかし、なにしろエルフ族だ――耳がひゅんととがっている――、見た目で判断しないほうがいい。いやしかし、それ以前に、この人なのだろうか…エナの疑念は、当人が払ってくれた。
エナを見つけたその人は、あ! と近づいてきた。
「はじめまして。オレ、オルト。リーフの相棒のエナ?」
「あい…!? や、ええと、エナです、冒険者で、剣士やってます。よろしくお願いします」
「よろしくエナ! 甘いもの好き?」
オルトはぱっとエナの手を取って握手しながら、楽しさが溢れる笑顔で話す。
最初こそ戸惑ったものの、エナはすぐに打ち解けはじめた。いい人だ。
子供っぽいかもしれないが、それだけではないように感じた。自分のことも話すが、エナにいろんなことを聞いた。よく目が合うし、オルトは、よく人のことを見れるのか、見ようとしているのか、どちらかだ。
よく喜ぶし、ありがとうと素直に言う。素直さの塊だ。多分、素直すぎるところもあるのだろう。
リーフが世話になった、ということにも、なんとなく納得した。
『琥珀の盾』の魔法使い、オルトは、想像していた“すごい魔法使い”とは違っていた。
楽しいお茶会は夕方まで続いた。
*
珍しく、リーフは二部屋とっていた。
「オルトさんに報告があるから。お茶会で話せなかったから夜話す約束をした。エナは休んでて」
報告ってなんだろう、長い話になるんだろうけど、そんなに何を話すのだろう。必要なことは、あとで教えてくれるだろうか…。
ひとり部屋で寝そべって、エナはぼんやりと考えた。
大体、おかしくないか。
経験が、そう言っていた。
あの状況で――悪魔に囚われたあの状況があって――、相手はセレスタイトで、呪いもなにもかかっていないのだろうか。
強い悪魔は、かけようと思わなくても、癖のように、息をするように、呪いを残していくものもいるという。セレスタイトは、そこまでの悪魔ではなかったのだろうか。
(ああ、そうだったのかも。だから俺を連れていけたのかも…けど…)
違和感があった。
ルイスの契約相手。エナは今でもまだ、ルイスがどこかで契約を望んでいないのではないかと思っている。望みを叶えるためではあるが、そのために誰かを殺めたり、傷つけたりすることは望んでいないはずだ。
ルイスが契約してしまった相手。
うっかり契約してしまうように仕向ける悪魔というのは、経験豊富な、得てして強い悪魔が多いらしい。
それに、『緋炎の月』が動き、結果がああだった相手。ゼルやグレースと直接戦ったのはルイスかもしれないが、それにしても。
(セレスタイトは多分、かなり強え。それでも俺を連れて行ってくれたのは、ルイスさんのことがあったからじゃないのか。リーフさんが連れて行こうが行かまいが、いつか俺がぶつかるって、わかっていたからじゃないのか)
胸の内で不安が渦巻いていた。
(ゼルさんは亡くなった。グレースさんは重症。ココルネさんはともかく、フィルさんと、リーフさんは、剣士だ。本当に無傷なんだろうか…)
たしかにこれまでも、急にいなくなっては不意に戻ってきた。戦いから、恐らくほぼ無傷で――あるいは回復してもらってから――エナのところへ戻ってきていた。
(そうだよな、ココルネさんがいたもんな。大丈夫だよな。なんかあっても、治してくれてるよな)
――じゃあ、報告ってなんのことだろう。いい報せなのだろうか?
エナはがばっと起き上がった。
「ん゛あ~~~~っ」
頭をかきむしる。寝れるはずがなかった。かといって外出する気にもなれず――というか、外出するならリーフに一言声をかけに行くべきだと思うが、それをして話が聞こえてしまうのも嫌で――エナは猛烈な勢いで腕立て伏せを始めた。
*
「おはようございます」
なぜだか疲れた様子のエナを、リーフはじとっと見た。
「おはよう。どうした」
「いえ…ちょっと筋トレしすぎました」
「あ、そ。今日、オルトさんと一緒にクロスローズ行くよ」
クロスローズ。メア国の冒険者ギルド本部がある、冒険者が最も多い街だ。
急な予定はいつものことだが、ここメアソーマからクロスローズは遠い。
「クロスローズ? ギルドになにか報告ですか?」
いや、とリーフ。
「セルヴァさんに会いに。ついでに依頼も見ていこう」
多分、内容は聞かない方がいいのだろうな…エナはただ頷いた。
「わかりました。もしかしてまたテレポさせてもらえるんですか?」
「うん。オルトさんと一緒にね」
「なるほど、じゃあすぐですね」
「朝、食べたらもう行くから。今からもう荷物持って出るよ」
「わかりました」
さっさと荷物をもって、しっかり朝食をとって、ふたりは街の《転移先》の近くまでやってきた。
「おはよー」
昨日よりかなり落ち着いたトーンで、オルトがふたりにへにゃっと笑いかけて迎えた。
もうひとり、迎えてくれたのは、リオナの娘、旅医者のアリアだった。
リオナと同じようにゆるく癖のついた髪が、整えられて耳の横で揺れている。きりっとした印象だが、上がっていない目尻や、笑い方が、柔らかい。
「おはようございます。私もクロスローズに用事があるので、一緒に行かせてくださいね」
こうして4人でクロスローズへ空間転移した。フリーの冒険者であるエナと、冒険者ですらないリーフが《転移先》を利用するとなると色々面倒だしお金がそれなりにかかる。同盟所属していると、場合によるが、少なくともフリーや旅人よりもぐっと安いらしい。リーフとエナは自分の分の料金をオルトに渡した。
セルヴァと待ち合わせているという場所に向かう途中で、アリアと別れた。
セルヴァに会っていかないの? と言うオルトに、アリアは笑った。
「晩ご飯、一緒に食べる約束してます。昼はこれから用事があるから。ありがとう、オルトさん」
アリアはギルド方面に向かい、エナたちは、店が雑多に集う通りを歩いた。
「ここだー。『盾』のサポーターがやってるお店なんだよ」
深く、少し赤みがかったような茶色の木のドア。通り側の大きな窓には薄いカーテンがかかっている。ドアを開けると、木製のチャイムがからからと鳴った。意外と広い、というか奥行がある。装飾は外観から予想されるほど多くなく、シンプルだ。
昼までまだ時間もあり、恐らく開店直後のために、客はほとんどいない。
奥の部屋へ案内される。表からは見えない場所に、一見すると従業員用ではないかと思えるドアがあった。
オルトはとんとん、とノックして躊躇いなくドアを開く。
「セルヴァ、お待たせ。いい匂い。コーヒー?」
「うん。またみなさんの分も持ってきてくれますよ」
魔法灯が暖かく照らす、木の色の小さな個室。壁に寄った四角いテーブルと、椅子が4つ。
セルヴァが立ち上がって3人を迎えた。エナは前回セルヴァに会ったときの白や緑のイメージばかりもっていたが、今日は黒に近いグレーのタートルネックのセーターだ。
「お久しぶりですね。リーフさん。エナくん」
「お久しぶりです、ウィザード・セル」
リーフが言うと、セルヴァはなつかしそうに言った。
「そう呼ばれるのは、いつ以来でしょうね。今はセルヴァですよ」
セルヴァは座りながら、前に座ったリーフに語りかける。
「フィオとはたまに会っていたみたいですね」
リーフは微妙な表情だ。
「5年に一度未満を”たまに”というのなら、そうですね」
「”たまに”、話を耳に挟んでいましたよ」
ふっとリーフは笑った。セルヴァの横で、オルトが「オレはもうちょっと、ちゃんとたまに思い出してたよ」と主張する。ありがとうございますと、リーフは律儀に応えた。
「悪魔セレスタイトと戦ったと、リオナから聞いていますが」
セルヴァがさらりと切り出した――聞いていた、と言うが、いつどうやって…手紙の転送、とかいうやつだろうか? ――エナは内心首をかしげたが、話の腰を折らないよう、黙っていることにした。ええ、とリーフが頷く。
「それで、オルトさんにもちょっとみてもらったんですが――」
「オレが出来るのって、みるだけだし、偏ってるから、セルもみて。いいよね?」
セルヴァはリーフと、それからエナに目を向けた。
「おふたりとも、セレスタイトに接触したのですね?」
「はい」
リーフは頷いた。セルヴァは何も言わなかった――エナは、セルヴァがリーフを責めるかと思った。しかしその一瞬を過ぎると、いつも通りの柔らかい雰囲気のセルヴァに戻る。
主にエナに向けて、話した。
「ご存知のことと思いますが、強い悪魔は呪いを残していくことがよくあります。すぐには気が付けない程度の弱いものもありますが、そういうものでも魔法耐性が下がるなど、不利益しかありません。一応確認して、あれば解いておきましょう。ものによっては時間がかかりますが、無事に帰ってきている時点で、心配ない程度のはずですので、安心してくださいね」
エナは頷きながら、セルヴァは本当に冒険者なのだなあと実感した。
「今から調べてみます。おふたりとも、楽にしていてくださいね。何か妙な感じがしても、抵抗しないで頂けると助かります。寝ていてもいいですよ」
穏やかな低い声で、セルヴァは次第にゆっくりと言葉を紡いだ。
「目を閉じてください」
言われたとおり、目を閉じる。
「背もたれに、体を預けて」
木製の椅子の、座面と背もたれ部分のクッションは、それほど柔らかくはないが、しっかりと支えてくれる。
コーヒーの香りが、より心を落ち着けた。
「静か。…空気のぬくもり。…穏やかなマナ。…手が暖かい。…心地よい。…」
次にセルヴァが何と囁いたのか、エナは聞いていなかった。
氷の樹の根は冷たくなかった。それもそのはずだ。育つそばから、誰かの手に天から押さえつけられ、熱と力で、氷の樹は水の樹になってびちゃびちゃと落ちていったのだ。
手は暖かい空気のようで、すんなりと、胸か心か、深くに指先を伸ばしてきた。
樹の根が隠すようにして抱えていた黒い種があった。小さなそれを見つけた指は、恐れることなく触れた。
すると不安が全てを包み込んだ。それに触れてはいけない。拒絶すると、手は天のほうへ引っ込んでいく。しかし再度、近づいた。少しだけだ。もう来ない。天から暖かい春風のような気配が吹いた。不安がさあっと吹き飛ばされて、小さな黒い種は静かにそこに在るのみになった。
平穏が戻ってきた。
コーヒーの香りがする。
現実に戻ってきた、と思った。眠っていたのだろうか…目が覚めたような感覚だった。
目を開けると暖かい色合いの部屋にいて、前に座っているオルトが、しーっ、とエナに向けて指を立てていた。
オルトの横に座っているセルヴァは、両手をテーブルの上に置き、姿勢正しく、集中している。エナはゆっくり視線を移した。横に座ったリーフは、壁にもたれて眠っている。
オルトが、エナに笑いかけた。大丈夫だよ、静かに待ってて、と言われているようで、エナは頷いた。多分、セルヴァは先にエナのことをみて、今、リーフをみているのだ。呪いがないか確認して、あれば解くと言っていた。
(俺はなんかかかってたのかな。リーフさんは、大丈夫だろうか)
エナはなんとなしに自分の胸を撫でて、小さく息をついた。なんだか、とても、すっきりした気がする。
夢を見ていた気がするが、なんだっただろう。気持ちのいい夢だったと思う。
セルヴァが何かをしてくれたのだろうか。一見するとただ瞑想しているようだ。時々、手が少し動いた。
リーフは本当にただ眠っているようだった。穏やかだ。こんなに穏やかなことが、あっただろうか。いつもどこか気を張らざるを得ない生活をしていたのだ――あんな悪魔たちを相手にしているのだから。改めて、いや、ようやく分かった気がした。
エナは、思い出したように、白い剣のほうへちらりと視線をやった。今ももちろん帯びている。いつも通り、灰色の布に包んで。
(この剣があってもなくても、もうやること変わらない、って、いつか言ってたな…)
静寂の中でぼんやり考えていると、ようやく、視界の中でセルヴァがすっと目を開いた。
おかえり、と小声でオルトが言う。セルヴァは小さく微笑みを返した。
リーフはまだ眠っている。
「そのうち起きますよ。寝かせてあげましょう」
セルヴァがひそやかに言う。エナも小声でたずねた。
「呪いが、ありましたか?」
そうですね、とセルヴァはあっさり答えた。
「多分、身に覚えがあったのではありませんか?」
あ、とエナは不意に思い至った。氷の樹。言われて初めて思い出した…夢を忘れて、ただなんとなく不安だけを覚えていたのだ。
「あれが…。…あの夢が、呪いだったんですね」
天から暖かな手が現れて、氷の樹を溶かしていった、その光景がふっと脳裏をよぎった。
「あの暖かい、手みたいなのは、セルヴァさんだったんですね」
エナの問いかけに、セルヴァがどこか安心したような小さな笑みを浮かべた。やはり、とエナは頭を下げる。
「ありがとうございます」
いいえ、とセルヴァは静かに応じた。
「お役に立てたなら幸いです。念のためお聞きしますが、他に変わったことはありませんか? 本当にちょっとしたことでも、何かあれば教えてください」
エナは考えた。夢のことのように、言われないと気がつかないようなこともあったのだろうか。
「…今のとこは、あの夢以外は特にありません」
「そうですか。言うほどのことではないな、と思って言うのをやめた事は、ありませんか?」
思わぬ問いに、え、とエナは改めて考える。
「ありませんけど、その、夢のことみたいに、俺が気がついてないのかもしれません」
再び、そうですか、とセルヴァ。納得したようだ。
「リーフさんのほうは、私よりもアリアの専門分野のようなので、私はあまり手を付けませんでした。今夜アリアと会う予定
ですので、リーフさんをお借りしてもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。…おねがいします」
あんまりさらっと言われたので、エナはそう言って頷いた。心配は頭をもたげることなく、それが不思議だった。アリアは旅医者であり魔法使いだという。要は、セルヴァの専門外だったので解かなかったということなのだろうが…。
じゃあ宿で待ってよう、と先のことを考えた。
***
――…戦いの後、エナに呪いがかかっていないか調べるために集中していたココルネがふっと息をついたのは、数分が経ってからだった。
「…基本的で、今解くべきものは、解けました」
リーフは頷いた。
ココルネはしばし言葉を探すように黙っていた。
「…病魔呪い、というものをご存知ですか?」
そうきたか、とリーフは思いながら頷いた。
「ええ」
よくある病魔呪いは、長寿種族がかかる。人からの意図しない悪意が蓄積され、一見病気に思える呪いが発現するのだ。
「力のある悪魔が使用することがあります」
ルイスの言った、一年で体がおかしくなって死ぬとは、そういうことらしい。だがリーフは落ち着いていた。
「ルイスによると、魔法剥奪で上手にやればいいらしいですが」
「上手に、…やったとしても…魔法剥奪は、失敗して何も奪えないか、成功、つまり完全に呪いを奪い術者が死ぬか、どちらかでしょう。成功の場合、呪いの効果がそのままなら、本当に幸運です。無理やり対象を変えられた呪いは、新しい対象である術者を拒否するのでしょう。様々な不調が現れ、場合によっては即死です」
リーフはそれを聞いて、思ったよりいいじゃないか、と言わんばかりの反応を示した。
「あ、そうなんですか? てっきり、失敗したらエナが死ぬとか、両方死ぬとか、そういうのがあるかと思っていました。なんだ。失敗は何も起こらないだけなんですね?」
「…ええ。魔法剥奪を使うのですね?」
リーフは当然のように頷いた。
「僕は、もう奴に何も奪われません」
「…ここでは魔法が行いにくいですから、まずは、帰りましょう」
ココルネは立ち上がって、フィルのほうへ歩んでいった。リーフはエナを背負って付いていく。
「レイラたちは先に帰しました。空間転移しますので、近くに寄ってください」
「皆さん無事だったんですか?」
「いえ、ゼルは死にました。グレースは重症です」
そうですか、と静かに応じたリーフ。ココルネは付け加えた。
「ルイスが手加減出来るほど、私たちは弱くなかったから」
剥奪の魔法を、リーフが扱えるということが、ココルネにとっては驚きだった。
剥奪の魔法は、リーフが使える魔法の中で、最も高度な魔法だ。
「僕から頼みました。理解して、伝授してくれました。…これは僕のエゴです。僕があいつに負けないためにすることです」
魔法が行われ、ココルネはそれを横で見ていた。
「…うまくいったのか、よく分からないな…」
「成功したと思いますよ」
「ココルネさんがそう言うなら、安心です」
「…何が起こるかわかりませんから、しばらく、慎重に。これまで出来ていたことが出来なくなる可能性を頭に置いて行動してください」
リーフは頷いた。とはいえ、何が起こるのか分からなすぎて、気をつけるのが難しい。
ともかく、この”手段”を授けてくれた恩人に、会いに行かなければ。お礼と報告をしに。
「オルトさんに報告に行きます」
お茶会の時、迎えに出たリーフをみとめて、オルトは驚き、喜ぼうとして、表情を曇らせた。明らかに、リーフの、その内側の異常をみている。
「…どうしたの」
「《剥奪》しました」
淡々と応えたリーフ。オルトは怯えたように半歩後ずさる。その魔法を教えた本人は、泣きそうな顔をしていた。
「リーフ。それは、最後の手段だった」
「はい」
どことなく責めるような響きにも、リーフは頷いた。オルトは、黙りこくった。不意にリーフの手を握る。オルトは魔法を調べるときによくこうするのだ。
しばらくじっとして目を閉じていたが、やがてオルトは呟く。
「上手にやったね」
肯定も、お礼も、言わずにリーフはただ頷いた。
「誰かを助けた?」
「はい。…いえ、そもそもは僕のせいでした。彼の意思でもあったけれど、僕が止めれば来なかった」
「後悔してるの?」
「いえ、…ああ、いいえ、少しだけ」
「そっか」
「それでも、僕は止めるべきではなく、行くことを助けるべきだと考えました。そこには後悔はありません。…《剥奪》はしたのですが、まだ何か残っているみたいなんです。…いつも頼ってしまってすみません。診て頂けないでしょうか。助けたいんです。僕がやれることはなんでもします」
「うん。いいよ」
ほっ、としたのは束の間、リーフはぎょっとした。空色の瞳から、ひとつ、ふたつ、雫が流れ落ちたのだ。
「一年」
オルトが呟く。
「リーフ。今から魔法を考える。すぐできると思う。それを使って対処しても、あと一年まで延ばせないと思う」
一年。ルイスは、”一年で体がおかしくなって死ぬ”と言っていた。剥奪した上に一年なら、十分すぎる。だがオルトにとってそれは関係ない。
「オレはもうあの頃みたいに自由に遠くまで飛べないし、悪魔にだって前より鈍くなってるし、リーフが何と戦っていても、オレには分からない。誰が戦っていても、分からない。そうやって体にひっついちゃう悪魔の黒い魔法、オレには解けない…」
ごめんね、の掠れた声が痛々しく、リーフはいたたまれなくなった。
「謝らないで下さい。何度貴方に助けられたか。どれだけ、貴方に、恩を受けたか…僕は…僕がこうしてここまで戦ってこられたのは、オルトさんがいたからです。オルトさんが僕を、僕として生きるために、ずっと助けて下さった。…どうか…」
悲しまないでという言葉ですら、我が儘に思えて、リーフは迷った。オルトは、ぽつりと、何か言う。
「……ま…」
「え?」
「…半月まんじゅう。期間限定桜あん…」
リーフは一時ぽかんとしたが、頷いた。
「…買ってきます。次の4月に…」
すると、オルトは、ぱっと笑った。
「うん」
***
改めてリーフから、事の顛末を説明した。
空いてきたが未だざわめく街食堂の一角で夕飯を終え、リーフは淡々と、セルヴァと、そしてアリアに向き合っていた。
「魔法剥奪は、」
セルヴァが笑みもなくリーフを見据えた。飽くまで穏やかに。
「私などに任せればいいことです。それがあなたの生き方でも」
理解は、あるようだ。
「のこされる気持ちを、貴方はきっと、よく知っているでしょう?」
恐らく、リーフが譲れないことを分かっていて、それでも、回復術士セルヴァは立場上、リーフに言わざるを得ない。だがそこにはいくらかの私情も、含まれているだろう。そんな言い方だった。
リーフは、言い過ぎるかも、と思いながらも後悔のないように言い返した。
「これは僕の道、僕のエゴです。僕のために、やったことです。エナのためだったなんて言うつもりはありません。自己犠牲めいたことは、僕も大嫌いです。
あいつらに対して勝ち負けは無いと思っていますが、でも、僕は、もう奪われないことで、二度と負けないんです。…負けず嫌いなんです。それにエナの行くと決めた道を、僕は止めない。行かないと生きられない道があると、僕はよく知っています」
奪われないこと、リーフ自身がそれを防ぐこと。実現した上、散々奴を阻んでやった。戦い続けるしかない相手に対して、これは勝利と呼んでもいいと思う。
アリアが呆れ気味に言った。
「あーあーはいはい。どっちもどっちですよ。父さんも私の前でそういうこと言うのはやめてね。死ぬこと考える前に隠居でも考えて、母さんに精一杯大好きって伝えて生きてよ。さいごは看取ってあげるから」
セルヴァは困ったように笑った。
「アリアには敵わないな」
旅医者アリアは、両親よりも凛々しい印象で、そして両親に似た優しい笑い方をする。
「じゃ、生きるお話をしましょう。病魔呪いということですが」
リーフに呼びかけた、アリアは仕事をする顔になる。きっちりと真面目に説明してく。
「症状がないことには、私には何も出来ません。根本は、病気と違って呪いなので、魔法使いにどうしようもないなら、治りません。…解けないなら、治りません」
リーフは頷いた。それはそうだろうと。
「今は自覚症状がなくても、剥奪前の呪いで一年以内に死ぬというなら、それより早く進行するはずです。オルトさんの魔法があっても、一年あるか分かりません」
また、頷く。
「いつ、どういう症状が出るかわかりませんので、戦いからは身を引くことをお勧めします」
「…ん、…隠居?」
リーフが思わずそうたずねると、アリアは頷いた。
「隠居」
症状出るまでは戦えるかな、と、リーフはどちらかといえばそう考えていたのだ。アリアは説明を追加する。
「戦ってる時に急に体が動かなくなって、エナさんの前で死んだらそれこそトラウマですよ。せめてそれくらいは、遺されるほうの気持ちを考慮して下さい。それにそんなリスクを抱えた戦士と共闘するなんて怖いし、共闘させるなんて怖いです」
うーん、とリーフ。言い返せない。
冒険者たるもの、死と隣り合わせではある。が、アリアの言うように、急に体が動かず…なんてことになれば、エナが危険だし、そうでないとしても、察しは悪くないエナのことだから、何かしら勘付くだろう。
「では、一人で戦う分には、僕の勝手ですね」
アリアはじとっとリーフを見た。リーフはいたずらが見つかったような妙な気分になって、ちらと目をそらした。
アリアはふうん、とため息のような声を出して、リーフを見つめる。
「そうですね。…そんなに戦いたいですか?」
「まあ。悪魔を阻むのが僕の生きる道なので」
アリアはしばし考えた。セルヴァは呆れ気味に、だが理解したようにふと笑った。それを横目に見て、アリアはやがて言った。
「そうやって生きたいのなら、止めませんが…。…何か変わったことがあったら、私でも、近くの医者でもいいので、診てもらって下さい。目眩がするとか、疲れるのが早いとか、剣がいつもより重く感じるとか、とにかくなんでも。診てもらって何もないって言われても、とりあえず、また私に連絡してください。うち知ってますか?」
「いえ。エナが知ってますけど僕は知りません」
「んー、ヴァース村で、回復術士を探せばたどり着けます」
アリアがセルヴァに視線をやる。セルヴァは頷いた。
「私かリオナから、アリアに連絡しますよ」
「ありがとうございます」
リーフは素直に頭を下げた。
迷惑をかけるのは気が引ける。でもそれなら、そもそも危険な橋を渡らなければよかったのだ。
そんなことはできない。
ならばここで、差し伸べられた手を、空元気をもって振り切ればよかっただろうか。もし、リーフが差し伸べる立場だったなら、明らかに頼るあても打開策もこれ以上持たない知り合いを、捨て置くことはできない。
もう随分前に、オルトに拾われた命だ。繋がりは、もうできてしまっている。
感謝をすることと、悪魔を倒すことくらいしか、返せそうなものはない。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「いいえ。身も蓋もなく言えば、悪魔と戦うのがあなたたちで、怪我したり風邪ひいたりしたら何かしらするのが私たちです。お互い、仕事ですしね」
さっぱりとアリアが言ったので、リーフもさらりと補足する。
「僕のは趣味みたいなものです。冒険者ではありませんので」
え、とアリア。
「そうなんですか」
「ええ、まあ、生きがい、ですから」
そうでしたね、とセルヴァ。
「でも、どう考えても並みの冒険者よりも悪魔討伐実績がありますから、仕事ってことでいいんじゃないでしょうか」
「じゃあ仕事で」
適当だなあ~、と思わずアリア。
「こんなに適当な人だと、もっと長生きしそうですけどねえ」
「案外10年くらい生きてるかもしれませんね」
「はいはい。永遠に生き、明日死ぬつもりで、今を生きてください」
アリアの言葉にリーフは感心した。
「いい言葉ですね」
「いい言葉ですよ。こんなに適当に言ったのは初めてです」
小さく微笑んで言って、それからセルヴァに視線を送って話を譲った。
「それと、エナさんのことでお話があります」
「…はい」
リーフにとってこれが本題だ。
***
適当に安くて旨いもの食べて先に宿で待ってよう、というエナの思考に被せて、「じゃあオレがエナと晩ご飯食べる!」とオルトが言った。
冒険者の多い町ゆえ、冒険者を意識した店が多い。
ほわほわした魔法使い、オルトがエナを連れて行った店は、居酒屋だった。飲めるか聞かれて答えたらこうなった。
「飲むことがないので、飲めるのか分からないんです」
ほどほどに賑やかな店内。柱の間を布で仕切って個室のようにしていた。
座ってほどなくして、どこかから酔っ払いらしき怒鳴り声がして騒がしくなる。オルトはまったく気にしない。なぜかこっそりと尋ねてくる。
「リーフと一緒だから飲むことないんでしょ? リーフ、ハーフエルフだもんね」
「あ、そうですね」
エナは怒鳴り声が気になる。オルトは、気づいていないはずはないのだが、我関せずと会話を続けた。
「飲まなそうだし、飲めなそうー」
ふたつ折りになっているメニューを広げて、オルトは眺める。横向きにして、エナにも見えるように。
「あ、ありがとうございます。飲まないですね。…なんか、すごい怒鳴り声聞こえますけど、何かあったんですかね」
「あったのかもねー。ビール飲んでみる?」
「あ、じゃあ」
「ご飯どれにしよっかなー。オレはこれかこれがおすすめなんだけどね、店長さんはこれおすすめだって書いてある」
ふとオルトはメニューから視線を上げた。そしてへにゃっと笑った。
「ここはすごく安全だよー。すごく強い店長さんとすごく強い店員さんがいるから。あれくらい大丈夫だよ」
「ああ、そうなんですね」
なるほど、冒険者を意識した店か――ようやくエナは、多少安心した。
メニューを眺めるうちに、いつしか騒ぎは収まっていた。
ビールは苦かったが、美味しいという人の気持ちも分かった。とはいえ好んで選びはしないな、と思いながら飲み、そして食べ進めた。
「いいですねここ、旨いし、値段も高すぎなくて」
「いいでしょー」
「飲み屋だけど、リーフさん連れて来ようかな」
「連れてきてあげて! できたらオレも誘って! リーフとお酒飲みたいなー」
「あー、オルトさんに言われたら、飲みますかね?」
「ちょっとなら飲んでくれるかなー? あんまり無理させようとは思わないけど、酔ったとこ見てみたいなー」
「なんか、説教臭くなりそうじゃないですか?」
「えー、意外とすっごく笑うかもよ!?」
「っ、それすげえ見たいです」
それから騒ぎもなく夕食を終えて、オルトは三杯目の、エナは二杯目のアルコールを飲みながら話していた。意外と会話が弾むのは、相性なのか、オルトが上手いのか…エナには判断しがたかった。
「オルトさん、冒険者じゃないんですか」
「うん、だからただの魔法使いだよー」
「でも、『琥珀の盾』所属、ですよね?」
「サポーターってことでね」
「あ、そういうことか! 幹部かと思ってました」
「ううん、体裁が、あるからねー」
オルトさんも、とエナは思った。
「冒険者にはならないんですね」
――リーフさんも、ただの、旅人だ。
(たしかリーフさんは、憧れた人が、旅人だったって言ってたっけ)
オルトはうん、と頷いた。
「オレは、悪魔と戦うものにはならない。…戦うの嫌いだもん」
本当はねえ、とオルトが控えめに笑った。酔った緩い笑顔なのに、どこか切ない。
「みーんな、仲良くできればいいのにって思ってた。でもみんな違う人だから、仲良くっていうのは難しいから、仲良くなくても、うまくやっていけたらいいなって思う」
難しいねえ、とオルトはぼやくように続ける。
「難しいからね、オレは、知ってる人たちのことを助けられるようにがんばるんだー。見えても届かないところもあって、たまに悲しいけど、助けれた人からの、ありがとうも、いっぱい貰ってるよ」
オルトはグラスを両手で包んだまま微笑んだ。そこに、エナでは届かない、魔法使いの歳月と経験が滲んでいた。
届かない、とエナは内心繰り返す…行くと決めた、力不足は分かっていた。それでも自分しか、話せる可能性はなかったと思う。行くしかなかった。でも自分じゃなければ、自分がもっと強ければ、何かもっと出来たなら、だれかが死ななかったかもしれない。
「届かなかったとき、どうしてますか?」
するり、と問いが出てきた。今とても知りたいことなのだと、エナはなんとなく感じた。自分のことなのに客観的だ。
「んー…? どうしてるか?」
オルトは首をかしげる。
あまりにも言葉が少なかったと気がついて、エナは少し考えた。
「次頑張ればいいってときもありますけど、…次が、ないこともあるじゃないですか」
今度は、オルトはしっかり頷いた。
「うん」
そのまっすぐな返答は、”次がない”ことを肯定するものでもあるようで、エナは苦しくなった。どうすればいいか、なんて。今更もうどうしようもない。分かっている。何も出来やしない。
しかしオルトは、どうしようもない、とは言わなかった。
「どうすればいいか、分かんない」
んー、とオルトは考える。
「んー、悲しかったり、寂しかったりする。そしたら、エルミオとかが、どうしたのって言ってくれる。そしたら少し、少しだけ、…軽くなる」
思い出すように話し、うん、と自分で納得したように頷いてエナを見た。
「それで、これからどうしようかなって、どうしたらいいかなって、考えられるようになる」
エナは小さく頷いた。まずは少し、時間が、要るのかもしれない。
でもやっぱり、とオルトは再び口を開いた。空色の瞳が漠然とグラスに向けられていた。
「もやってするかも。…でも、オレには、今があって、先がある。これから出会う人もいる」
そしてエナに尋ねた。
「どうしたの?」
どきりとして、エナは言葉に詰まった。なんて言えばいいのだろう。
「届かなかったかぁ」
さらりと言われて、エナは頷いた。そう、何もかも、足りなかった気がするのだ。
「冒険者やってたら、こんなこといくらでもあるのかもしれません。オルトさんや、セルヴァさんや、リーフさんは、こんなこと、いくらでも乗り越えてきたんだと思います。…どうすればいいのかと思って…いや…」
もうちょっとでも上手く振る舞えたら。もうちょっとでもちゃんと戦えたら。結果は違っていたのかもしれない。
しかし過去は変えられない。未来を、望むように近づけることしか。
すべきことはきっと、これしかない。
「強くなる。それだけですね」
うん、と言ったあと、オルトは追加した。
「…うん…それがエナの方法なら…」
一口飲んで、しばし飲みものを見つめて、それからふとエナを見た。ゆっくり言葉を探しながら、頭をひねりながら、オルトは表現していく。
「あのね、ひとりだけでは、超えてないよ。…超えてない。…笑ってもいいし楽しんでもいいし、悔やんでもいいし、泣いても、よかったんだよ。そんな気持ちになることを、悪く思ったり、ぎゅうって抑えたり、することは、強いのとは、違うと思う。それだと、頑固になって、いろいろ見えなくなって、迷子になっちゃう、かも。
本当の気持ちを見失って沈んでいっちゃうことを、誰も、エナに強いたりしないよ。沈みそうな時、誰かが伸ばしてくれた手を、掴んでもいいし…掴んであげてほしい。きっとその人は、助けたいって、思っているから」
罪悪感が、薄らいだ――罪悪感があったことを、エナはやっと自覚した。
自分が、今の弱い、誰かの足を引っ張ったり傷つけたり死なせてしまう原因になる自分が、そうしてはいけないのではないかと。
「…はい」
無理やり笑って目を瞬いた。
うん、とだけ、オルトは返した。そして数口残っていた酒を飲み干すと、ぼやくように語った。
「ずっと一緒だと思ってた人も、お別れのときがくるんだよね。オレがそう知ったときは、…すごくつらかった」
ぼうっとグラスを見ながら、しかし次第に言葉ははっきりしていった。
「冒険者でも、そうじゃなくても、つらいって言えないくらいつらいことが、あると思う。
オレはそんな人に会ったら、理由がなんにもなくても、なんにも言えなくても、ただ、一緒にいてほしいときに、一緒にいてあげれたらいいなって思うよ」
今まさに、エナは、オルトにそうしてもらっている。エナはそう思った。経験したから、寄り添える。
(強いな――)
ふとそう思って、気が付く。こういう優しさを、強さだと感じてそう呼ぶ自分がいた。
そうか、これも、強さか――不意に、道しるべを見つけた気がした。
「ありがとうございます」
思わず言うと、オルトは一度へにゃっと笑った。それから、眠そうに俯いた。
「…ごめんね」
「え?」
聞き返すとオルトは眠そうなまま顔を上げた。
「ううん。宿に戻ったらねえ、心が落ち着く魔法があるからね、エナ用にちょっと改造するから、ちょっとみていい? エナの、不安な感じ」
「? はい?」
「セルヴァがやったみたいなやつ。オレにもちょっとやらせてね」
それが今のオレにできること、と、笑った。
***
命に関わる呪いは、リーフがほぼ全て《剥奪》している。
もうひとつ、剥奪されず、ココルネにも、セルヴァにも、オルトにも除去できなかったものがあった。
それはおそらく、エナ側にも問題がある。エナ自身が抱え込むものと一体となっている。恐らく、完全に除去することはできない。エナが抱えるものを減らし、対処できる程度にするしかない。しかしそれは、一朝一夕にできるようなことではないし、きっかけさえあれば何度でも発現するだろう。
「不安」
セルヴァは言った。
「…という性質のものだと思います」
「タチが悪い」
「ええ、非常に」
思わず突っ込んだが、リーフはともかく、セルヴァの話を最後まで聞く姿勢を示すため黙った。
「関連して、恐怖、焦燥、苛立ち等も現れるかもしれません。強力なものですので、発現すれば、精神的な要因で、身体にも影響があると思われます。震えや吐き気など。今、オルトがエナさんにかかったその呪いを見ているはずです。私とオルトとで、対処するための方法を考えます。恐らく魔法になると思います」
よろしくお願いします、とリーフは頭を下げた。それから、はたと気がついて問う。
「隠居?」
というより、とセルヴァが考える横からアリア。
「療養です」
「療養…まあ似たようなもんか」
んー、とアリアは表情で「違う」と語りながらも、穏やかな声のまま切り返す。
「療養中の人を不安にさせるような言動は避けてくださいねご隠居さん」
「努力します。療養ってことは、改善するってことですね」
「改善、とも言えますね。不安を減らすことと、不安との付き合い方・考え方を学ぶことが目標ですね」
リーフは頷いて、しばし考えに耽った。
「僕は、自分の状態を把握するまで、離れていたほうがいいかもしれませんね。アリアさんがおっしゃったように、エナの目の前で死ぬようなことがあればそれこそトラウマ…その”不安”の呪いを悪化させるでしょう」
考えをまとめながら喋ってから、リーフはどうでしょうとでも言うように二人を見た。
「…僕が遠慮なくあいつを置いて、いつも通りに勝手に単独行動をすることが、一番マシに思えます」
「いつも勝手に単独行動してるってことですか?」
アリアがすぐに尋ねた。
「はい」
リーフはあっさり頷く。エナさん大変そう、という表情をしてからアリアはたずねる。
「それでいいんですね?」
「僕はこれが最善だと思います。…マシというのは言い方が悪かったです。まあ、またなにか思いつけば変えますけど」
アリアは頷いた。
「エナさんや、リーフさん自身のことは、リーフさんが一番分かっておられるはずです。私に出来るのは、サポートすることだけ。やりたいこと、ちゃんと、やっておいてくださいね」
「そうします。サポートはまたそのうちお願いしに行くと思います。よろしくお願いします」
アリアは無言で頷きながら、少し疲れたように視線を落とした。
お節介ながら、と穏やかに沈黙を破ったのはセルヴァだ。
「年寄からも、ひとつ言わせてください」
何年生きてるんだろうな、とリーフはちらりと思った。
「リーフさんには、ご自分の内にも、周囲にも、育て、繋げてきた、力があります。自身の意思で今を選び取り、そしてこの先も選び取ってゆくことが出来ます。あなたに嘆きは似合わないから、文句のひとつふたつでも言いながら、それでもどこかでしっかり納得している、そんな未来を、是非」
リーフは、驚き、そして思わず笑みをこぼした。この驚きに似た気持ちは、そういえば、感動、と呼ぶものだ――リーフは気がついた。驚きを過ぎた後、心は暖かい。
もちろん今すべてが終わった気でいたわけではない。しかし人から「未来を」と言われると、なぜか活力が沸く気がした。
「ええ。…ありがとうございます。セルヴァさんも是非。僕が最近素晴らしいと思った言葉を、お返しします。
今日死ぬつもりで生き、そして永遠に生きるつもりで、今を、選び取って下さい。…なんかちょっと違うのは見逃して、気持ちだけ受け取ってください」
少し目を見張って、ふ、とアリアが微笑んだ。
「適当だなぁ」
「ありがとう、心に刻みます」
セルヴァが言うと、アリアも頷いて心から言った。
「ありがとうございます」
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