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エナ -師匠のこと  Ⅴ.「いつか」の日

     思い描いた日。思いもしなかった日。

      いつかや、あしたや、先だった、今日の縁と行方。@1805~6,1809頃

 

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「えっ、療養?」

 療養。慣れない言葉がぐるぐると頭の中を回る。しかしいまいち理解には至らない。

「そ。療養」

 リーフは素っ気ない。いつものことだが、それにしても素っ気ない――…なんだか久しぶりにこの素っ気無さに触れた気がする。

「俺、別になんともないですけど…」

 どうすればいいのだろう。ずっと寝てるなんてことではないはず。だって動けるのだから。それどころか、大人しくしているというだけでも、体力が有り余りそうだ――…そう、あの日、そう思った。

 午前、朝食が終わったあと宿を出て、エナとリーフはアリアと、そしてオルトと合流した。『盾』のサポーターのカフェで、コーヒーを飲みながら話していた。

「なんともなくも、なかったんだよー」

 普段通りのゆるい口調でオルト。言ってる内容は怖いが、その態度のおかげで緩和された――…少しほっとした感覚を覚えている。

 エナは気がついた。

 ――…夢だ。これは、夢だ。あの日の。もやもやと、しかしあの日自分が見た、聞いたことが、嫌に鮮明に繰り返されている。現実に似すぎていて、気味が悪い。

「オレとセルヴァがみた感じでね。もうちょっとだと思う」

「もうちょっと?」

「うん、なんか、どうにかできそう。もうちょっとで」

 どうしよう、分からん…――あの日と同じように言葉も思考も進んでいく。どこか遠くで、夢なのにな、と思う。

「エナさんにかかっていた呪いは、」

 アリアが話し出してくれた。

「父さんなら効果を払うことは出来るけど、あれはその場しのぎにしかならないみたいです。対処するための方法のひとつとして、オルトさんが、もうちょっとで、魔法を編み出せそう、なんですよね?」

 ね? とアリアが視線を向けると、オルトは大きく頷いた。

「そう! もうちょっとでどうにかできそう」

 なるほど。

 だから、とオルト。

「しばらくオレと一緒にエラーブル村で療養ね」

「えっ、オルトさんと?」

 つまりそれはオルトが時間を削ってエナの療養に付き合うということで、エナは驚きと申し訳無さで思わずそう言ってしまった。それから、失礼な反応をした、と自覚して速やかに付け足した。

「俺の療養に付き合わせてしまうなんて申し訳ないです」

 申し訳なくないよー、とオルト。

「オレは色々、出来ないけど、これは出来ることだから。届くのに、手を伸ばさないのは、いやだから、やらせて欲しいし…えっと…」

 オルトは自分の語彙の中から、どうにかふさわしいものを選ぼうと悩んでいるようだ。が、案外すぐに諦めて言った。

「とにかく、申し訳なくないよー」

「お前や僕じゃどうしようもないんだから、素直に受けときなよ」

 リーフさんが言った。素直、か。

 素直は大事だと、ルイスさんも言っていたなと、ちらと思う。リーフさんはそんなに素直な部類だとは、思わないけど。

 

「素直は大事だぞ」

 

 …――違う。

 突然あの日にはなかったはずの声が聞こえた。

 はっ、と見れば、リーフの背後にルイスが、いいや、声はルイスだったはずだがそこに居たのは、セレスタイト。水の体、橙の瞳の悪魔。一気に体が冷えるのを感じた。暗闇の中で受けた苦しみが、冷たさが蘇る。

「お、まえ…な、なんで…」

 咄嗟に立つことも出来ず、凝視した。おかしい、誰も気がつかない、誰も動かない。どうして。

 ――知っている。まずい。このままでは、どうなるか、分かる、分かってしまう。

 セレスタイトは冷酷な微笑を浮かべてエナを一瞥し、ためらいなくその手を、リーフへ、伸ばした。背中に触れる、水の指先は抵抗なく、まるでリーフの体に入り込むように解けて、それでも腕はまだまだ伸ばされていく。胸を貫くかのように。

 やめろという言葉は形になることができずにエナの喉をいびつに震わせた。

 セレスタイトの腕は、肘あたりまで消えた。眠るように目を閉じていくリーフに、近づいてふうっと息を吹きかければ、ピキリピキリと何かが鳴る――氷だ。氷の枝が、リーフの胸から、生えていく――その苦しみをエナはよく知っている。

「やめろ!」

 やっと飛び出して、体ごとセレスタイトにぶつかる。が、水の体は、水のはずのその体は、乱れることもなく、エナはすり抜けて転がった。くすくすと笑いが耳の奥で反響する。

 四肢をもつれさせながら立ち上がる。見れば氷の枝は、今や木となってリーフの体温を奪い、冷たい光を降らせている。

 剣を取ろうとすれば、剣がない。

 橙の瞳が、エナに細く笑った。

 その時突如、空中から白銀の炎が迸った。

 風景が、まるで紙を燃やすように破られて燃えていく。

 人より少し大きい、白い狐。3つの頭、3つの尾。蒼い瞳。

 悪夢を焼き払うそれを、風景の中でただセレスタイトだけが憎々しげに睨めつけた。氷の木も、風景となっていたカフェもオルトもアリアも、リーフも、そして最後にはセレスタイトも、白く燃えて、焼け落ちた。白い狐は、残っていた床に降り立ち、エナをじっと見つめて、よく響く暖かな低音で囁いた。

「 起きなさい。ソリの作った朝食が冷める前に 」

 

 

「ヴェイルさん…」

 自分の声で、目が覚めた。

 どくどくと打っていた心臓が、徐々に落ち着いていく。強張っていた体は、ここが安心できる場所であると気がついてゆるんだ。木の天井。エラーブル村の宿、使わせてもらっている従業員用の小さな部屋。

「おはよう」

 ベッドサイドには、宿の主、ヴェイル。白銀の長髪に、蒼い瞳。臙脂色のベスト。

「おはようございます」

 エナは身を起こすなり、謝った。

「すみませんでした。また助けて頂いて…」

「いや。俺の力が役立って結構」

 ヴェイルというこのミユ族の男は、音楽に生きる種族にうまれたのに、”音使い”としての能力が底辺らしい。その代わりだろうか、”夢渡り”という、エナが聞いたこともないことが出来る。夢の中でヴェイルは、三つの頭の白狐となり、白銀の炎で悪夢を焼くのだ。

「朝食が冷める前に降りてくるといい」

「はい。すぐ行きます」

 ヴェイルは返事を受け取ると、さっさと部屋から出て行った。ぱたりとドアが閉まる。エナは小さく息をついて、身支度を整え始めた。

 

 エラーブル村のこの宿は、『琥珀の盾』サポーターのヴェイルと、その妻ソリが経営している。療養、と言われてオルトとこの村にやってきた。ソリとヴェイルは、エナとオルトに部屋を貸してくれた。

 

 エナの希望もあり、今、エナは宿で働いている。ここに来て16日目の今日は、休日だ。

 休日で良かった。

 夢見が悪かったせいだろうか、起きたばかりなのにひどく疲れていた。なんとなく悪夢をなぞり返してしまう思考を振り払う。朝食に降りて、片付けくらい手伝いたい。

 身支度を終えて部屋から出る。ふと、物音がした、気がした。階段とは反対。行き止まりのほう。オルトの部屋のほうだ。

 宿。物音。…不意に、不安の波が襲ってきた。

 ひょっとして何かあったんじゃないか。あのドアの向こうで、何か。療養に付き合ってくれているせいで、何かしら、あの悪魔の手がここまで――…。

「エナ、おはよー!」

 呼ばれて階段のほうを振り返れば、オルトが登ってきていた。にこやかだったが、強ばったエナの表情を見つけて、近づきながら尋ねる。

「だいじょうぶ? 寝れなかった?」

「あ、いえ」

 オルトは何も言わずに言葉を待つので、ついエナは続きを探した。

「夢見が悪くて」

 そっか、とオルトはうなずいた。

「ちょうど8日前みたいな感じじゃなかった?」

 8日前? 言われてエナは考える。深く悩むこともなく思い出した。…あの日も、そんな夢だった…。

 ――…リーフさんが死ぬ夢だった。

 ぱっ、とオルトに手を取られた。

「だいじょうぶだよ」

 剣を握らない、やわらかい手だ。空色の瞳が優しく温かい。オルトは、誰かが不安そうなとき、手を取るようだ。優しく強いこの人は、そうして、大丈夫だと、力をくれる。不思議とエナの中に活力が蘇る。

「やっぱり、これも8日だ。分かった。これで出来ると思う」

「…?」

 一時の真剣な眼差しは、すぐに崩れてへにゃっとした笑顔になった。オルトは、いつもの調子で言った。

「まずは朝ごはん食べよ! お腹がすいたり、寒かったりすると、オレたちって簡単に弱くなっちゃうからね」

 はい、と着いて行きながら、エナの脳裏を過るのはやはり、師匠だった。飯は大事だという人だから、飯だけはちゃんと食べているだろうが。今はどこでなにをしているのだろう。「僕は療養不要だから」「何を落ち込む。万全の状態に近づける方法や環境があるのに利用しない馬鹿があるか。お前はまず自分をどうにかしろ。それから戦うやら何やら考えろ」などと言って、いつも通りどこかへ行ってしまった。セレスタイトを追っているのだろうか。

 朝食って気分じゃない。

 エナは少し視線を落とした。しかし足が重くなる前に、やはり思い浮かぶ――食事は疎かにしないこと。

 仕方ない、まずは朝食だ。

 

 辺境の村の宿での時間は、ゆるゆると歩んでいく。それでも、少ないとはいえぽつぽつと客はいる。休みの日でも、皿洗いや洗濯を手伝うし、料理も少しずつ教わった。そうして午前が終わると、16日目のその日は、オルトとヴェイルとの午後となった。

 

 もう一度寝てくれということだった。

「たぶん、また悪夢が来ると思う。そしたら、オレがみる。どうにかするための魔法、それで、もう出来ると思う。だいじょうぶだよ、オレと、ヴェイルが、ついてるからね」

 そんなふうに言われたので、戦いに出るような気持ちになって寝れなかった。というか広くない室内でひとりベッドに寝て、すぐそこにオルトとヴェイルがいる状況はなかなか寝るのには困難な状況だった。

「なにしてるの」

 困っていたら、ヴェイルの妻、ソリが様子を見に来てさらりと言った。ソリの声は、なんだか、透明な空のような声だ。

「そんなに見られていたら寝れないわ」

「あ。うん。ほんとだね」

 と、オルトはうっかりに少し照れ笑いして、ごめんねー、とエナに謝って出て行く。ヴェイルは「俺は寝れる」と言って、ソリに引っ張られて退室した。

 パタリ。扉が閉じて、静かになった。多分、すぐそこで待機してくれているのだろうが。

 じっとしていると、朝食前まで感じていただるさが、じわじわと戻ってきた。いや、ただ感じていなかっただけかもしれない。

 なんとなくしんどい。目を閉じると、思考が飛び交い始める。

 ――昼寝ってあんましたことないな。起きたら洗濯物が乾いてっかな。お世話になってばっかりだな。療養って、いつまでするんだろう。対処する魔法を考える? 編み出す? って、言ってたけど…それが出来たらもういいのか? あんな夢も見なくて済むようになるのかな。こうやってだるくなることも。 これが、あの…あの悪魔との戦いの、後遺症みたいなもん? リーフさんは、本当に、大丈夫だったんだろうか。ああ、セルヴァさんもみてくれていたし、ココルネさんがいたじゃんか。

 けど。

 けど……。

 

「なにしてるの」

 すぐそばで声がした。リーフさんだ。

 緑色の瞳が、エナを見下ろす。リーフさん、と、エナは身を起こした。ほっとして頬が緩む。

「来てたんすね」

「うん、すぐ出るけど。調子はどう」

「まあまあです。変な夢は見るけど…――」

 エナは、ひとつ瞬きして、リーフを、リーフがいる部屋にしか見えないその風景を見る。

「――…俺、助けてくれる人がいっぱいいるんです。どうにもなんなくても。どうにかします。大丈夫です」

 だから、と、悪夢を押しのけようとする。

「覚めろよ…」

 左手の甲を、ぎり、とつねる。感覚が遠い。ああ、やっぱり夢だ。

 どうした、と、それらしくリーフが眉をひそめた。

「なにか思うところはあるかもしれないけど、今は自分のことをちゃんとしなよ」

 じゃあ僕そろそろ行くから、と、素っ気なく部屋を出て行くリーフ。拍子抜けした。何も起こらなかった。

 エナは、見送ろうと思って部屋を出た。もう姿が見えない。宿を出る。

 すると夜に支配された。

 開け放った扉に手をかけたままエナは固まって、さっきまでは暗いなんて感じなかった宿の中を振り返る。灯りもなく、とっぷりと闇に塗られている。村は、知った土の道、近所の道具屋と、あとはほとんど民家が並ぶ。木々が間をもたせるように並ぶ。

 踏み出した。探さなければ。

 続きなど、見たくなくても、続きはあちらから迫ってくるに違いないのだ。夜のように、エナまでも飲み込もうとやってくる。

 先に探して、予感している何かを斬り払い、防ぐ。戦うことすらかなわないなんて、そんなことに、してたまるか。

 走った。エラーブル村の断片的な景色の中を飛び飛び、巡り駆けた。

 リーフさん、と声を張って見渡せば、向こうの道に、だれか剣士と打ち合うリーフの姿が見えた。相手の剣士は明らかに契約者で、夜の中でも分かる暗い影を纏う。どこかルイスに似ている。

 エナは必死に走った。足が、思うように、進まない!

 リーフがこちらを振り返った。

「お前は来るな!」

 鋭く飛ぶ、言われなくなって久しい言葉。戦闘時には、リーフの言葉は絶対に守ってきた。ビタリと止まるエナの足。リーフの動きが不自然に鈍い。

 ――…だめだ、だめだ!

 エナは駆け出した。

 リーフの後ろで影のような悪魔が、剣のような腕を振り上げて、

「リーフさん!!」

 絶叫か、刃がリーフを斬るか、どちらが早いかというその瞬間に白銀の炎がエナの視界を遮った。

 

 夜が燃えていく。照らされることのない不自然な闇が、やはり紙が燃え落ちていくように、淵から白く、白く。

 

 夢だった。そうだった。

 真っ白になった。少し残った夜の地面に、白狐がふわりと降り立った。いつの間にか膝をついて悄然としていたエナの目の前で、それは、人の形に変わる。いつもより鮮やかな白の髪、蒼の瞳、そして赤い服。ヴェイルが、屈んでエナに目線を合わせた。

 何も言わずに、ふ、と微笑んで、手を差し出す。

「 エナ。お前は立てる。立たねばならない。だから、剣を握るのだろう? 誰かの手を借りて、誰かに手を貸して、お前は立てる。行こう 」

 ミユ族の音使いが、音を操るように――ヴェイルはそれが出来ないはずなのに――低い声がエナによく響いた。

 差し出された手を掴んだ。ぐ、とヴェイルが立ち上がって、その勢いのままさらに高くへエナを引っ張った。

 

 ぱちりと目を開ければ、空色の瞳が覗き込んでいた。目が合うと、ほっと笑う。オルトだ。

 おはよう、と、夢で聴いた低音が告げた。オルトのとなりには、今朝のように、ヴェイルが立っていた。

 おはよう、とオルトも言う。

「だいじょうぶ?」

「…はい」

 空虚な返事。

 ――…夢だとすぐ気がついたのに。

 行動もできたのに、払えなかった。起きれなかった。ひたすらに怖いと思い、夢ですら隣に立てなかった…来るなと叫んだリーフの声が、耳に残っている気がする。

 足を止めてしまった。

 何度目だ、届かなかったのは。

 ――…こんなに臆病だったか? こんなに情けなかったか? そんな。もうちょっと戦える。向かっていけるはずだ。リーフさんに鍛えてもらった俺だ。戦ってきた俺だ。強くなると、誓ったのに!

 ――…もうちょっとどうにかできただろ!

「エナ」

 オルトの声が優しく呼んだ。ヴェイルもあの低い声で、言う。

「あれは夢だ、こちらは現実だ」

 そして繰り返した。

「俺たちがいる。お前は立てる」

 力強いことば。エナは自分を納得させるように頷いた。立てる。

「…はい」

 あのね、とオルト。

「今夜までに、魔法がちゃんとできると思う。ちゃんとエナ用になったやつができそう。一緒に頑張ろうね」

 謝りかけて、オルトのまっすぐな瞳を見つけた。謝罪じゃない。今言うべきは。

「ありがとうございます。…本当に…」

「うん!」

 

 ――俺には助けてくれる人が沢山いる。ありがたい。

 ――立てる。今、きっと、手を借りる時期なんだ。いつか、いつかは、俺が、だれかに手を貸す。

 ――早く対処できるようにしないとな。

 ――リーフさんはどこで何してるだろう。

 ――また一緒に旅がしたい。

***

 悪夢の日を0として、それから8日後だ。ぴったりその周期で、嫌な夜がやってくる。

「オレたちがいるからね」

 オルトの考え出した魔法をかけてもらうと、心が落ち着いて眠くなる。だから、夜にかけてもらう。

 最初は、それでも悪夢を見た。ヴェイル曰く「あれは呪魔法のためではなく、本当にただの悪夢」。それでもヴェイルは悪夢を焼いてくれた。”夢渡り”とはどういう魔法なのか、エナには不思議で、迷った末オルトに聞いてみたが、「魔法じゃないかも。オレもわかんない!」らしい。

 8日に一度、8日に一度と、まるで忍耐の修行だった。

 魔法を編み出してからオルトは、8日に一度のその日には必ず居たが、他の日は文字通りどこかへ飛んで出かけていった。オルトにはオルトの生活がある。むしろそうしてくれてエナはほっとした。つきっきりなんて申し訳無さ過ぎる。

 働いている方がずっと気が紛れるので、宿の手伝いをし、家事の手伝いをし、畑の手伝いをし、月日が経って村人ともかなり仲良くなった。故郷のヴァース村での日々と、たまに、重なった。

 

 エラーブル、というのは、楓、という意味だ。その村の外れには墓地があった。秋には赤や黄色に葉が染まる木々、それがまだ青い頃、何度目か、リーフが会いに来た。

 リーフは毎回、魔法使いの男と一緒にやってきた。多分、一時的にパーティを組んでいる相手だ。依頼をこなすのに、しょっちゅう一時的にいろんな人と組むと、いつか聞いた。それが偶然かそうでないのか分からないが、村に来た何度かは同じ魔法使いだった。リーフがエナと話すなどしている間、男はどこか行っていたり、遠くでぼうっと待っていたりした。くせっ毛の黒髪に、くっきりした紺色の瞳、ディル族だろう。大柄だが、青みがかった黒の外套とローブで、いかにも後衛だ。

 その日も魔法使いは、小さな宿屋の小さな食堂の、すみっこのほうに座って待っていた。たしかに何度か来ればもう観光するようなところはない村だ。

 

 夢の内容は、この日もリーフには話さなかった。悪夢を見るということや、対処できるようにしていっていること、オルトやヴェイルやソリや、村の人たちにとても良くしてもらっていること…報告のように話して、それから、リーフの近況も尋ねた。その中でふと、魔法使いの彼のことを聞く。

「あの人は…俺、結局、挨拶もしてないんすけど…」

「ああ。あいつは…いいんだ」

「でも、リーフさんの今のパーティですよね? 挨拶くらいは」

「いや、いいよ。というか、僕もあいつも、お互いの深いところは、預け合わないようにしてる。お互い弱点にならないままで、目的が一致したときだけパーティを組んでるってだけだ」

 やんわりと、しかしもう踏み込めない確固たるものがあって、エナは頷いた。リーフとあの魔法使いのその距離感、それを保つことが、深い信頼に思えたのだ。

「少し付き合ってくれるか」

 珍しいことを言われるものだと思いつつ、エナは頷いた。リーフが墓地のほうへ向かっていることを、エナは途中で確信して、何かひとつ、知らない師の姿を予感しながらついていった。

 まだ楓一枚落ちていない土の地面に、木の導が真っ直ぐ、規則正しく建っている。エナの腰の高さにも届かない、名前の刻まれたそれは墓標だ。

 魔法使いの男は、声が聞こえないほど遠くだが、ついてきて待っていた。

「僕の…助けられなかった人たちだ」

 淡々とした言い方はいつも通りだった。隠しているのか、いいや――エナは出会った頃のリーフを思い出した。見えない人だと、思った。いつも仮面を被っているのかと。そうではない。リーフはいつもこうなのだ。何かと戦う時、まさに生きる時に、その胸の内の熱が、垣間見えるのだ。それを知ってみれば、違って見えた。嘆きもするし悲しみもするだろう、でもそれを、決意とか、何かにして、もっているのだ。ずっと。改めてまた嘆くことはない。

 じっと聞いているエナに、墓を見つめたまま、リーフは語った。

「旅立った頃の僕は馬鹿で、ぼうっと危ない場所に踏み込んで姉を失った。忠告の意味を理解しようとしないまま、知らない世界に踏み込んだんだ。

 それから悪魔を倒す方法や冒険者のことを知っていった。一人で旅をして戦えるようになって、しばらくした頃、例の、メア城の悪魔の事件が起こった。……」

 風にかすかなため息が溶けた。

「悪魔の創った舞台の上で僕たちは選び、戦った。何があいつの思い通りの台本で、何がそうでなかったのか、僕には遅い推測しか出来なかったけど、舞台を壊せなかったのは確かだ」

 声に微かな熱を、エナは感じ取った。

「知ってると思うけど僕は負けず嫌いだ。ところがあいつらは、完全に消えるってことがなかなか無い。もちろん、名のある悪魔、その個体は消えうるけど、結局、分離してるやつが記憶も性質も受け継いでたり、全然別の悪魔だけど似た性質だったり…あいつらにはキリがない。人の心とおんなじだ。

 僕は、あの日から、僕を負かしたやつの舞台の上でずうっと踊りながら、あいつらの望まない台詞やら展開にもっていった。そうし続けた。するとあいつらのことが少しずつ分かった。舞台の壊し方が分かった。だから僕は妨害し続けた。そこに勝ち負けはなかったが、…二度と奪われないと、僕は決めている。

 僕はこうやって生きる。お前は、父親を見返すのか、また何か別のことを見つけるのかな」

 尋ねられたわけではないようだ。エナの脳裏に、父親や、ルイスのことや一緒に戦った人たち、数年前に組んでいたパーティや、デインや仲間のことが思い浮かんだ。

「後悔は苦しいから、あんまりするんじゃない。でも結果がどうであっても、間違いではない。決めたなら行くんだ。僕も、おまえも、誰しも、行かなければならない時がある。

 今は万全に整えろ。生きろ。そうしたらどこかへ行ける」

「…リーフさんはどこへ、行くんですか」

「さあ。どこかな」

 飄々としたこたえ。やんわりとした、別れの言葉だと感じた。療養はいつまで続くだろう。リーフはその間、どこへ、どんなに遠くへ行くだろう。いつだって戻ってくる保証はない。また、リーフとあの魔法使いがお互いの大事なものを預け合わないように、エナもまたリーフの弱点にはなりたくない。エナは頷きながら、言葉を探した。

「…またどこかで依頼とか敵とか、飯屋とか、被ったら、ご一緒して下さい。その時までに俺は、自己管理も出来て、戦えるやつになってます」

 また一緒に旅がしたい。そしてそうできるなら、エナは誓った。

「今度は…リーフさんと並んで戦えるやつになってます」

 は、と、リーフは少し不思議そうにして、笑った。

「もうなってるよ」

 えっ、と、エナは一瞬喜んでから、いやいや、と首を振った。まだだろ、まだまだ――俺の言う並んで戦うっていうのと、リーフさんの言うのとは、多分違う。十分だとリーフさんが思う今を、俺は超えないと、今のままじゃ、繰り返しちゃいけない。

「いいやまだです。待っててください、追いつくので」

 リーフはおもしろそうに、じゃあ、と。

「楽しみにしてる」

 少し挑戦的な、しかし期待と信頼の言葉に、エナは、はい、と大きく頷いた。

 

 

 数ヶ月もすると、魔法をかけてもらえば悪夢を見なくて済むようになった。その頃に、オルトが新しい方法をもってきた。

「薬草! 魔法がなくてもこれだけでも大丈夫かもしれない」

 いつまでもオルトの魔法頼みではいけないと思っていた。魔法なしで悪夢に対抗することはとても難しくて、この頃密かにエナは悩んでいたのだ。薬草で大丈夫なら、自分でどうにかできるだろう。冒険者業も――レベル審査にひっかからないようにと時々、オルトと出かけて魔物討伐をしてはいたが――やっと再開できそうだ。

 

 十一月だった。

 あの魔法使いがエラーブル村にやって来たのを見かけた。観光する場所もないが、季節が良いので墓地の周りなんかは楓が綺麗だ。しかしそんな風景を見に来るような人には思えなかった。挨拶を止めるリーフは一緒にいなかったので、別の依頼で来たのか、それとも、と考えながら、声をかけるかためらった。

 ソリとヴェイルの宿に泊まりに来た。手伝いをしていたエナに、魔法使いのほうから、少しリーフに似た淡白さで話しかけてきた。

「リーフの弟子で相棒の。俺はウェイン。やつのことはよく知らんが、俺の気を済ませるために来た」

 ウェイン、というこの人は、人見知りのように、エナには感じられた。もしかしたら、それもあって、リーフは、声をかけるのを止めたのだろうか、とも思った。そんな思考の底に、ひそやかに、ずっと見てきた夢よりは静かな、しかし同じ、予感があるのを知っていた。

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