エナ -師匠のこと Ⅲ.橙の瞳の悪魔
( 1 / 2 )
日が昇る前の暗い空。塔はさらに月星の光を遮って影を落としていた。
『再構築の塔』の内部は、魔道士のレイラ、前衛ディル族のゼル、それにココルネも直接調査に来たことがあるらしく、マップをほとんど把握していた。ただ、約8時間サイクルで処々マップが変わっている。
「2回目のときはこっちが行き止まりだったから…」
「階段の位置が、この時間ならこの階は東側のはず」
ある程度話し合って来てはいたが、全ては把握しきれていない。
「こんな大掛かりな魔法、誰がどうやって何のためにかけたんでしょうね」
魔道士のレイラが呟く。
「力の誇示と、自己満足では? あるいは、ドマール族やディル族の研究者が、精霊か悪魔の力を借りてやったのかもしれないな。魔法陣かなにかの力も借りないとまず無理だろう。目的は、最上階を自分の危険な研究のラボにするとか、どうだ」
ディル族の前衛、ゼルがぶっきらぼうに言う。
「悪魔セレスタイトじゃ無理だろうけどな」
その付け足しに、そうですねえ、と言ったのはグレースだ。レイラも頷いた。
「ルイスとセレスタイトで協力して行うには、彼らの距離感は遠すぎるし、魔法が大きすぎますね」
どういうことだろうか、距離感とは契約の強さとかだろうかと、エナはわからないなりに意味を考える。
ココルネとリーフは、何も言わなかった――リューノンの関与は、口に出さない。
目指しているのは、最上階だ。22階建てらしい。
「相手の性質上…というより性格からして、最上階でしょうね。でも、それまでに何か仕掛けてくるかもしれません、気をつけて」
一階登るたびに、ココルネが言葉を変えながら同じ注意を促した。不安は煽らず、ただ、気を引き締めなおすために。
魔物は多くない。
下層でレベルが高く注意すべき砂の魔物は、水の精霊使いがいれば敵ではなかった。
『相手を選ぶ知能がないと、大変だね』
すいすいと宙を泳ぎながら、水の精霊ヴァハトが言った。
魔物よりも、再構築が厄介だ。頻発するものではないし、マナの動きという前兆があるが、急いで走り離れた通路が再構築され始めたときはひやりとした。さっきまで立っていた場所が、灯りのない塔内部の闇に消え、まったく違う通路・壁が構築されていく。それなりに範囲が広いので、巻き込まれると下層に落ちるか、再構築に巻き込まれる。
「塔の一部にはなりたくないねえ」
走り抜けたあと、水の精霊使いグレースが安堵する。
「スリル満点ですね」
涼しい顔でリーフが頷いた。同意なのか何なのか。
調査の行き届いている十四階までは特に迷うこともなかった。特に変わったことも、悪魔の姿かたちもない。ほとんど魔法なしで進んでいく。
「ここから、特に再構築の前兆には気をつけてくださいね」
穏やかな口調でココルネが注意を促した。十五階への螺旋階段の入口が、彼女の背後で待ち構えている。
「全滅防止に2パーティになり、ある程度距離を取って進みます。もし分断されても最上階で合流。日が暮れる寸前には中断して《転移先》へ帰ります。衝突事故を起こさないように、緊急の場合ゼルはリャンの街にお願いします」
「承知」
複数人の空間転移は、スペルストラップがあってようやく、ココルネ、レイラ、ゼルが扱うことができた。水の精霊使いグレースが扱えないのが意外だったが、来る前にちらりと聞いた話によると、水の魔法に特化しすぎたために普段から空間魔法をはじめ他の大魔法が全く扱えないらしい。
エナは、リーフ、ココルネ、グレースと一緒のパーティだ。ここからはゼル、レイラ、フィルのパーティと距離をとって進む。
北、南東、南西に柱があり、そのどれかが螺旋階段になっている。十五階への階段を、ココルネ、リーフ、エナ、グレースのパーティが先行した。遅れて、ゼルたちのパーティが階段を上り始めたはずだ。
二十二階まで…分かってはいたがなかなか遠い。
(着いてから…会ってから、本番だ)
エナは気を引き締めた。その時――…。
「 階段内、再構築! 駆け上がって! 」
突如、音使いのフィルの声が届いた。
その声色がいかに切迫した状況かを物語る。エナたちは駆け上がり始めた。
(どういうことだ? 前兆、なかったよな?)
再構築のような大きな魔法なら、前兆にココルネやグレースが気が付かないはずがない。エナですら微かに何か感じられるはずなのに。
『走って、走って、グレース! 前兆が、ない、同時だよ、やってくれたな! 再構築の術者はセレスタイトの味方のようだ! やってくれたな!』
水の精霊ヴァハトがグレースの周りを急かすように飛びながら推測と悪態を口にした。
グレースが、信じられない、と顔をゆがめた。
「嘘でしょ、こんな魔法を、途中で操作するなんて…!?」
『だけど、今、そうなんだよ、グレース! サブロード・ココルネ! 再構築を利用されるんじゃ圧倒的不利だ! 帰ろう! ねえ、グレース!』
とにかく駆け上がる。空間転移するにしても、再構築が発動しているこの場所ではマナが足りないのは明らかだ。それに、複数人の転移は術者が範囲を正確に把握しなければ危険だ。
「あっ!?」
グレースの踏み出した先が消えた。ほぼ隣を走っていたエナは咄嗟に彼女の腕を掴む。
まばらに崩れていく階段。闇に吸い込まれていく。その底に、エナは何かを感じた――悪魔、そう思った。
(落ちたら、居る――)
セレスタイト、だろうか。分からない。だが、居る。再構築を利用して、仕掛けてきたのだ。
「 《 浮遊 》 !」
ココルネの凛とした声で、エナは我に返った。掴んだグレースの腕を思い切り引っ張ると、予想外にすっと上がる。勢いがつきすぎて半ば投げるように階段の上へ持ち上げた。
エナとグレースは一瞬だけ目を合わせ、すぐに駆け上がり始める。いつ足元が抜けてもおかしくない。まばらに崩れていく。いくらか上で立ち止まっていたココルネとリーフも走る。
「っ!」
エナの前を走っていたココルネの足場が消えた。リーフがココルネの腕を掴む。
グレースが咄嗟に手を貸そうとする、その気配を察してエナは叫ぶ。
「登ってください!」
終着点は見えている。あと少し。階段は危険だ。全員落ちたんじゃ元も子もない。まして水の精霊使い、重要な戦力。削られてたまるか!
エナとグレースは登りきる。すぐにグレースは《浮遊》を準備する――魔法Lv6である《浮遊》を、エナはここで使えない。
数秒もしない時間、エナはもどかしさでリーフとその先にいるココルネのほうを凝視していた。
(――リーフさんも気がついてる)
リーフは…その横顔、視線は、エナがさっき見た闇の底を見ていた。
普段の、飄々として、涼しげな、時に面倒くさそうなリーフとは違う。悪魔と対する時、普段通りなようで、その内側に炎のような何かが静かに燃えているのだ…それを、エナは今この瞬間も感じ取った。
「 《 浮遊 》 !」
グレースが唱えた。リーフはココルネを階段の終点まで放り投げる。ココルネは、そうされると分かっていたのか言われていたのか、上手に着地した。グレースがほっと息をつく。
エナはリーフから目を離せなかった。ココルネを投げたとほぼ同時に、リーフの足元が崩れた。
闇の底を見るその瞳に、宿敵とまみえる戦士の意思が輝いている。
落ちていく――いや、エナの目には、戦場でようやく相手を見つけて飛びかかっていくように見えた。
思うよりも先に、体がリーフを追おうとしていた。手を剣の柄にかけ、一歩踏み出したエナをココルネが引き止める。
腕を掴まれてやっとエナは、戦場に向かおうとしたその行動がいかに無謀に見えるか気がついた。すぐに階段の再構築が始まるだろう。巻き込まれたら終わりだ。
「あの下に奴がいます。戦うべき相手が。リーフさんも気が付いて…」
言葉は遮られた。突如飛んできたいくつもの水の針を、水の精霊使いグレースと精霊ヴァハトが魔法で叩き落す。
登ってきたばかりのフロア。通路の先に、橙の瞳が輝いていた。
*
落ちる、とは思わなかった。リーフは空気よりずっとねっとりした闇の中を降りていく。
闇の声が聞こえる。囁き恨み呪うような声はもう、リーフの心に入り込むことはない。
「まどろっこしいのは嫌いだろ? セレスタイト、それともリューノンか? そろそろ現れたらどうだ、《理不尽な離別》、《見当違いの安心》、《恐怖の残渣》」
ざわざわ、ぞわりと闇の気配が揺れる。
悪魔に真名はないという。悪魔を的確に示す古代語が真名になるともいう。
悪魔に限らず、まさにその本質を示す言葉とイメージをもってその者を呼ぶことは、真名を呼ぶのと同じだと聞いたこともある。
「時間稼ぎをして僕から逃れるつもりか? それとも、このままあっさり殺すか? そういうわけにはいかないよな、お前は僕にもうちょっとくらい仕返ししないと済まない。ほら、来てやったぞ。今ならこのダンジョンに放置するだけで、再構築に巻き込まれて死ぬかもよ。それもなかなか、えげつないよな。
どうするんだ? 珍しく迷っているのか? それとも、思っていたより僕の耐性が高くて困ってるのかな? 僕から逃げていたせいで、今の僕を把握し損ねたのか?」
いつしかリーフは闇の中に立っていた。
ぬうっ、数歩前の闇から青白い顔をした男が現れ、光のない目でリーフを見た。
「エナを連れてきたんだな」
契約者ルイスは、失望を滲ませた。
リーフはふと笑った。
「エナは、あなたのために来たんですよ。僕はセレスタイトを倒しに来ました。ここにいるでしょう?」
ルイスは何も言わなかった。やがて、はあ、とため息をつく。
「捕まったのはリーフじゃない」
すっと屈んで、そこにあるはずの床に手をついた。視線をあげてリーフを見る目は、まるで懇願するかのようだ。
「登ってこい。リーフのために、セレスは舞台を用意している」
リーフは理解した…誘き出されたのだと。
悪魔セレスタイトの寄り代である水の召喚物が、見当たらない。寄り代と悪魔とはあまり離れられないはずだ。ここには、いない。感じた気配は、悪魔ではなく魔法だったのか、あるいは落ちていく間に悪魔を通り過ぎてしまったのか? 餌に釣られてリーフはここに来てしまった。
「…そうでしたか。なかなかの役者が揃っていますが、あなたたちに扱いきれるのでしょうか?」
捕まったのは、エナたちのほうだ、と言いたいのだろう。しかし、簡単に扱える役者などひとりもいない。
「ご心配どうも」
ちらりと、ルイスの目に力が戻った気がした。ふ、と冗談めかして笑う。
「あいつもしょっちゅう思いつきで色々やる気分屋だからな。今回の相手は『月』のサブロードもいるしヤバイんじゃないかって言ったんだけど。俺には何考えてるか分からない。契約相手って言っても、セレスタイトはまだ俺に憑かないからな」
笑みを消して、ルイスは最後に言った。
「なぶり殺されるぞ」
”捕われた”エナたちを利用して、という意図を容易に察して、リーフはため息をつく。
「でしょうね」
ルイスは返事に頷き、何か呟いて、魔法で床を破壊した。光が…いや、普通の暗闇が戻ってきた。
ルイスはそのまま下に落ち、恐らく空間転移で姿を消した。
穴を覗き込んで、リーフは、むっ、と不機嫌になる。
「なんだよ、結構高いじゃん。もうちょっと降りやすいところ選んでくれればいいのに」
さあ、ひとりで、登り直しだ。
*
橙の瞳、薄く青みがかった半透明の水の体。髪の長い女の姿をしたそれは、再度、同じように水の針をエナたちに向けた。グレースとヴァハトもまた同じように防ぐ。
セレスタイト。もう遭遇してしまった。
さっき崩れた階段の下に感じたやつは、なんだったのだろう。ともかく、セレスタイトは今、そこにいた。
ルイスがいないから、恐らくルイスが装備している召喚の元を壊すことは出来ない。
だがセレスタイトだけなら。このままここで、倒してしまえば。水の精霊使いグレースと、悪魔への止めの魔法《聖なる光》が使用可能であるココルネがいれば。エナが道を開けば。
セレスタイトを見据え、エナはこそりと尋ねる。
「もうちょっと距離詰めて《聖なる光》ですか」
「待って。違和感が。もう一手待ちます」
離れないで、とココルネはエナに念を押した。はやる気持ちを抑え、エナは指示に従う。違和感とは、どういうことだろう。
セレスタイトは、三度、同じような水の針を生み出した。それが飛んでくる前に、ココルネは言った。
「囮」
ココルネは言うなりセレスタイトに背を向け、階段の闇に向き合った。グレースとヴァハトが魔法を防いでいる破裂音を聞きながら、エナも振り返り目を見張った。
階段の下、闇に潜んでいたものが飛び出してきて、今まさにエナたちを包み込もうとしていたのだ。薄い影のようで、だがその後ろは見えない、底なしの闇の沼のようなものが、ぬっと、無表情な冷たさをもって迫る。
ココルネが古代語を紡ぎ目には見えない魔法を発動させる。処々《魔法封じ》の詠唱に使われる言葉が聞こえた。
影は見えない壁に阻まれ、停滞した。
「召喚物は器。本体はこれ」
もしエナがセレスタイトに向かっていき離れていたら、魔法を使いにくいこのフィールドで、3人全員が闇から守られていたか分からない。
本体はココルネが足止めしている。
水の召喚物は、囮ではあるが、本体である闇、つまり悪魔の、寄り代ではあるはずだ。悪魔がこんなにも具体化して人に影響を及ぼすことができるのは、寄り代があるから。
寄り代である水の召喚物を倒せば、悪魔の影響は薄くなるはずだ。そうすればココルネに余裕ができる。
ルイスがこの場にいない今、単純な行動を取る召喚物と、ココルネが防いでいる悪魔しかいない今なら、召喚物に隙ができれば、水の精霊使いグレースがきっと倒せる。
だがエナがココルネから離れれば、闇から守られることはないだろう。
エナが自分の身を守るために《守護》を使うには、エナが意識を伸ばせる範囲のマナが足りない。だから、こういう時のために、マナが結晶化したものであるマナの石を持ってきているのだ。
魔法Lv5までしか使えないというのは、マナの石を使わない場合のことだ。
エナはマナの石を使うのは人生で数回目だし、失敗して魔法が発動しなかったこともある。
でも、やるなら、今だ。
サブロード・ココルネは、若い剣士であるエナに、行けとは言わないだろう。今、エナと同じように、色んなことが脳裏を巡り、考えているに違いない。
だからエナから提案する。やれると示す。
「召喚のほうに隙作りに行きます。《守護》は自分でします」
ココルネは、逡巡し、一瞬の間の後言った。
「頼みます」
エナは《守護》のスペルストラップと、持ってきたマナの石に意識を向ける。《守護》の継続時間は3秒程度。ここぞという時に使わなければならない。エナは感覚が研ぎ澄まされるのを感じた。剣を抜き、水の召喚物を見据え、グレースとヴァハトが水の針を無効化したと同時に、姿勢を低く石の床を強く蹴った。
一直線に、水の召喚物へ向かっていく。剣では形を崩すくらいしかできないが、それが足止めになるとリーフから聞いている。それだけでいい。グレースに時間を与えることが出来ればいい。
やってやる――勝負というのはあっけなく、本当に終わったのかと、時に名残惜しいほどのことだってある。あれほど心を傾けたのに、たった一閃で、致命的な隙が、決定的な一撃が、生まれうるのだ。一瞬後には、戦況はがらりと変わっている。やれる。
背後から闇が迫っているだろうか。水の召喚物の近くで闇に足を取られることは避けたい――グレースのフォローが及ばない可能性が高くなる。
エナは振り返らない。なんであれ《守護》を使うのは一回だ。召喚物に剣が届く3秒前から。そう何度も使えるほど、エナの魔法の腕は良くないし、マナの石は数がない。
ココルネとグレースを包めないままでいた闇が、ざあっと広がりエナに迫った。前方からは水の針が飛ぶ。
グレースは針がエナに届く前に無効化しながら、剣士の背中と闇の距離、その速さから悟る――エナの剣が召喚物に届く前に、闇がエナに届く。《守護》を使わなければ!
だが一秒後、闇は、エナに触れることができないでいた。《守護》を使ったようには見えなかった。不思議に思うグレースの視界の中、認識の外で、エナの装備したベルト型の魔法具、それにあしらわれた水晶がちらりと光った。
ベルトに取り付けた小さな鞄の中にマナの石がある。駆けながらエナは集中した。
「 《 守護 》 !」
これで3秒間、背後は気にしなくていい。
虚ろな橙の瞳の女はエナを見ることすらしない。
その水の体を、エナの剣が両断した。あえて剣の腹を使ったために、水は大きく乱される。
ようやく召喚物は目を動かし、形が崩れ分断した胸から下を見下ろした。
もう一閃、エナが繰り出す。召喚物は鈍くも後退し、両断には至らないものの水の体がまたも乱れた。
エナの後ろでは水の精霊使いグレースが魔法を構える。エナには理解できない古代語を用いて、精霊ヴァハトの名を呼ぶ。唱えきったらしき声を聴いてエナは攻撃を通す道を開けるために身を翻した。
青い光を纏った水の精霊ヴァハトが召喚物に向かって滑るように飛んでいく。
遮ろうとする闇に気が付いて、エナはもう一度、どうにか、集中して唱えた。
「 《 守護 》 !」
闇は阻まれ、まだエナに触れることができない。エナの横を今まさに通り過ぎる精霊にも、追いつけなかった。奇跡的な成功だと、エナは内心高揚しながら召喚物を振り返った。
精霊が触れる前から、その体が青い光に吸い取られるように崩れるのをエナは見た。
そして瞬きするほどの時の後、崩れかけた体の召喚物が消え、残像の横に…ルイスが立っていた。
(えっ――)
どくん、と心臓が鳴った。
反射的に距離を取り間合いから出る。
(なんで、いつの間に、どうやって――)
――再構築の術者がルイスである可能性。マナの石を使えば空間転移も出来るだろう。まして、契約者、力を増している。召喚物がやられるのはまずいと、あの闇、悪魔が、契約者をここへ呼んだのか。召喚物は恐らく仕留めそこねた。仕留める前にルイスが召喚物を引っ込めてしまった――脳裏を駆け巡って、それから状況を認識する。
精霊ヴァハトの魔法は、水に対しての魔法だったのだろう。ルイスにはなんの効果も示さない。
エナは剣を握り直した。
(接近戦に持ち込んで、セレスタイトの召喚の元を見つける。恐らく宝石のセレスタイトが使われているもの…)
ルイスはやはり外套を身につけていた。その上から身につけ背負った剣を抜く。ツーハンドソードだ。
精霊ヴァハトは青い光を纏うのをやめ、宙から水の刃をルイスにぶつけた。あらかじめ掛けてあったのだろう魔法防御でルイスは守られる。連続して放たれた刃を、今度は攻撃魔法で相殺した。威力の低い魔法だったとはいえ、あまりに容易くやってのける――いや、こういうレベルの戦いに、今エナは身を置いているのだ。
斬れば、ルイスはこちらの体力を使って回復する。外套を脱がないなら、切り落としたい。戦いながら宝石セレスタイトを見つけられるだろうか。
(やってやる。見つけてやる。召喚道具を壊してやる)
ヴァハトの魔法攻撃に乗じて、エナは動いた。ヴァハトとは反対側へ回り込み一閃。やはり物理防御の魔法もかけてある。予測通り一撃目は、ルイスには傷一つなく、外套も一部が裂けただけだった。
振り向きざまにルイスが剣を振るう。エナは低く前進し足払いを仕掛ける――宝石らしきものは見当たらない。ルイスはよろけるが踏みとどまる。エナは斬り上げる。外套の前面とルイスの髪を掠る。ヴァハトの水の刃を相殺させる間に、と構えたエナは目を見開いた。
ルイスはヴァハトのほうを向いて刃を相殺させた。そして相殺するための攻撃魔法を、エナにも向けていた。低威力の同じ攻撃魔法を複数発動させたのだ。至近距離で、水の刃が飛んでくる――。
(いや、いける)
一瞬ひるんだが、エナ側にもあらかじめかけている魔法防御がある。この一波は乗り切れるはずだ。
ルイスの水の刃は軽い衝撃だけを与えて消える。召喚道具はどこだ――エナは目を凝らした。剣先がまたルイスの外套の一部を裂いた。
ルイスがエナに顔を向ける。口元が動いた――「セレスタイト」。
(再召喚!?)
まさか。この一瞬で出来るものか!? 道具は何だ、どこにある? ――ルイスに特別な動きもなく分からないまま、エナとルイスの間に水が集っていく。
まずい――いや、違う。チャンス、だ。ヴァハトとグレースが、この召喚物を倒せば。どうやらまだ、形を成すのに時間がかかる様子だ。召喚しきってしまう前に倒してしまえば。
エナは水の塊を薙ぐ。剣を握る手に、水ではない重い感覚が伝わった。
振り切れずに止まった刃。
集っていた水が離散する。エナの顔から血の気が引いた――刃はその後ろにいたルイスの首の付け根に食い込んでいた。
(しまった…!)
これも囮だ。
水への攻撃ならせめて剣の腹での打撃にしておけばよかった。焦りすぎた…気分の悪くなるような後悔。癖のように、次にどうすればいいかという思考に切り替わるが、まったくなにも思いつかなかった。
たったその一閃。致命的な隙。一瞬後には、戦況は、がらりと変わっているのだ――。
多少顔をしかめたルイス。エナはすぐに気絶しない自分に気がつき、いつかのリーフも気絶するまでに時間があったことを思い出した。このたった一瞬、ひとまずルイスの勝ちが確定した今だからこそ、エナは考える間もなく気持ちを吐き出した。
「どうして契約なんかしたんですか。何のために!」
エナは剣を引いた。ぐらりと揺れた視界。だがそれでももう一度、すべての力を込めて剣を振るった。ルイスが初めて表情を大きく変えたのを、見た気がした。
「…ば…これ以上やったらお前が衰弱死――」
力が抜け、意識が遠ざかって、最後に見たのは瞼の裏の暗闇だった。
*
闇の声がする。
遠くから。次第に近くへ。気を抜けば自分の思考と一体化してしまいそうなほど、そうっと。
『リーフは悪魔と契約するのかも』
『それが狙いなのかも』
『こんなに悪魔と戦っているのに死んでいないなんて』
たしかにな、と思う――たしかにな、リーフさんじゃなければ、あり得る話だな。
『考えてみろよ、どうして連れて行ってくれないことがあんなにあったんだ』
自分の力不足を知っているものの、確かにあった思いだ。でも違う。そんなひねくれた”連れて行ってくれない”不満は、あったかもしれないが、それを克服するための”力をつける”ということはリーフが手伝い、教えてくれていた。
『冒険者にも、頑なになろうとしない』
『一緒にいるのだって、契約していないという証明に冒険者をそばに置きたいだけかもしれない』
そうかもな、とまた思う。よくもまあ、それらしいことを。頭から否定することができないことを。
「…そうだとして」
『そうに違いない』
「俺が、リーフさんの今までのことや、言葉を信じないとして、どうして、どこのクソ悪魔かも分かんねえてめえの言葉なんか信じるっていうんだ? だったらリーフさんのことを信じて騙されるほうがいい」
『リーフは騙しているに違いない』
『てめえ? 俺は、俺の心だ』
エナは、ふっと笑った。
「やっぱ、リーフさんに鍛えてもらっててよかったわ」
闇の付け入る隙など、ここにはない。
「やるならもっと、うまくやれ」
――夢を見ていたと思う。
目を開けると、石の床の上だった。再構築の塔の中だ。《照らす光》も使っていないのになぜ見えるのかと光源を探すと、長方形の広い空間の壁に炎色の魔法灯が輝いてる。
ひどく体が重い。せっかく意識がはっきりしてきたのに、すぐに瞼が重くなる。
ここはどこだろう、どうしてこうなってるんだっけ――…もたもたと考えて、エナは閉じかけた目をぱっと開けた。
(ルイスさんは? あれからどうなった? ここはどこだ?)
起こそうとした身体は、動かなかった。気持ちばかりが焦る。動こうとするほど、動けないことに不安を覚えた。
(いや、待て、待て。とりあえずまだ起きなくても大丈夫だ。大丈夫。どうなってんのか考えるんだ。目は動くんだから、色々見てみればいいんだ)
ふう、と大きく息をついた。思いついて、もう一度やってみる。
「…ふう。…お、声は出るな。さーて、と…」
エナは再度、この長方形の広い空間を観察する。ざっと部屋の中に目を走らせて、すぐに、自分の近くに注意を向けた。
「なんだろうなぁ…魔法陣もないしな…。普通に魔法喰らったのかなぁ。喋れるし目も動くけど…考えたところで分かんねえな。分かったところで対処出来ねえだろうけど。んー。破れねえかな。なんか気合で破る方法みたいなのがあるって言ってたな…」
たしかルイスが言っていた。契約する前、10歳頃のエナに冒険者のことを教えてくれたルイスが。魔法を気合で破るという“魔法”があるそうだが、ただの力技で、魔法と呼べるようなものではない、と。
思い出していると、不意に背後に気配を感じた。エナはにわかに緊張する。
「そんなことも教えたか? 俺よりよく覚えてるんだな」
落ち着いた声、その主がエナの前に歩いてきて、片膝をついてしゃがんだ。ルイスは、この場に合わないくらい、普段通りだった。エナと再会した、あの日と同じ。
「エナの後ろに転移先魔法陣があるんだよ。俺が作った。俺はそれを使って戻ってきたところだ。リーフ以外を足止めしておかないと、流石にセレス一人じゃ今回は厳しいからな。リーフ一人で全員を守るのも骨が折れるだろうし。おまえとリーフ以外は全員『月』の冒険者なんだろ? サブロードは流石に油断ならない相手だが、なんというか、『月』もピンキリだな。しかし、あの音使いは案外手強いな」
エナはいろんな言葉を飲み込んで、混乱も怒りも今はとにかくおさめた。頭が痛くなりそうだ。どうにか作った笑いは、ちゃんと笑顔を伴っていただろうか。
「全員を相手取ってるんですか、ルイスさん。頭おかしいっすねほんと。逃げなくていいんですか?」
――感情をぶつけるだけではいけない。相手の思うツボだ。
リーフの声を思い出して、エナはそれ以上の言葉を飲み込んだ。本当は言いたいことが山ほどある。あの出来事のあとでこの言動なのか。大体、なぜ契約したのかという質問に一切答えてくれていない。契約内容は答えられないだろうが、その理由くらい、その欠片くらい、感情くらい、一言吐いてくれればいいのに。
ルイスはなんともいえない、寂しさと楽しさが同時にあるような笑顔で言った。
「俺が逃げたらあとどうするんだよ。まあ、なんとかなるさ。お前のことは、多分、俺とリーフが殺させない」
「…は?」
「は、って。別に俺は、おまえもリーフもどうでもいい。今回のことはセレスの勝手だ。俺は付き合ってやってるだけ。手伝ってとっとと終わらせないと、セレスは俺のことを心置きなく手伝ってくれないからな」
だから、とルイスは青くくっきりした瞳でまっすぐにエナを見た。
「絶対に、手を出すんじゃないぞ。目をつけられたら、お前も殺さないといけなくなる」
ルイスは立ち上がりながら、付け加えた。
「それはリーフにとって本当の敗北を意味するだろう」
分からなくなった。
エナの中には、怒りなどもはやなく、ただ、疑問ばかりが残っていた。
ルイスは契約者…のはずだ。だが、これまで相手にしてきた契約者とは、何か違う。敵意がない。邪魔者は全て消すという殺意がない。どう聞いても、”エナを殺したくない”と言っているような気がする。悪魔に意志を塗りつぶされることなく、自分のはっきりした意志に従えているように思える。
(そうだ、あの時も…)
意識を失う前、ルイスは、まるで、昔みたいに、ただエナを心配し守るような態度だったような――…。
否応なく脳裏を過ぎった考えを一旦区切って、エナはもうひとつ気になった言葉を口にした。
「お前も、って」
怒りの代わりに、悲しみが伴った。
「ルイスさん。話せるじゃないですか。ルイスさんは契約者だからって全てを捨てたり、奪われたりしたわけじゃない。ルイスさんは自分の意志をしっかりもってるでしょう? こんなこと…。…戦う意味がわからない。ルイスさんは何がしたいんですか。殺したいなんて、思ってないはずです」
だから、とルイス。
「俺じゃない。セレスだって。今回はな。お互いの願いを叶えるためだ」
願い、とエナは繰り返した。
「契約してまで叶えたいことがあったんですか」
押し殺したエナの声には、冷めた声が応えた。
「手段なんて、なんでもいいんだよ、エナ」
ルイスは微かに語気を強めて続けた。
「続きは、夢の中で話そう」
ルイスが何か呟く。すぐに、ぐん、と引っ張られるようにエナの意識が沈んでいった。
眠りの闇の中でルイスが告げる。
「殺させはしないが、お前にも役がある――…傍観者だ」
何かを尋ねる前に、ルイスは何かに目を向けた。
「来たな」
視線を追うと、――いつの間にかそこは、長方形のあの空間で、エナとルイスはその中心に立っていた――リーフが、部屋の唯一の出入り口から、抜き身の剣を手に、颯爽と歩み入ってくるところだった。
(やっぱり無事だった!)
リーフさん、とエナが呼ぶと同時に、エナの体をすり抜けていくつもの水の針が飛んだ。
リーフは表情一つ変えずに左腕を薙ぐように振るう。ぱぱぱ、と軽い音と共に水の針がただの飛沫となって散り、消えた。
「セレス、あなたと対峙するのに水耐性付けて来ないわけ無いでしょう」
リーフはエナを通り越したところにいる敵に、呆れて言った。
エナとルイスを挟んで、リーフとセレスタイトが対峙しているのだ。エナが振り返って見ると、セレスと、そしてその後ろに、倒れている自分と、傍らに立つルイスが見えた。
「言っただろ、夢、って」
一緒に立っているルイスが言った。
「夢…」
「俺たちはな。セレスとリーフと、あっちの俺たちが現実だ。共有とか眠りとか、まあ色々応用して、こんな感じ」
エナは解説を聞き流しながら、リーフに視線を戻した。
セレスが楽しそうに問いかける。
「私にいくら貢いでくれたの?」
「宿をケチる程度には。そういうわけだから僕に倒されてよ、報酬でチャラにしてあげるよ足りないけど」
「足りないわよ」
セレスが橙の瞳を輝かせた。
「足りない。もっと、あなたが、嘆いてくれないと」
「それは僕じゃ満たしてあげられないな」
セレスは整った顔に似合わない残酷な笑みを浮かべた。
「あなたのが欲しいの。あの女が死んだ時みたいに。またお前だけ生き残ることになったら、お前はまた立ち上がることができる?」
リーフは微笑を浮かべていた。
「出来る」
まっすぐに応えた。その笑みに、確かに悲しみは滲んでいた。それでも言葉に嘘はない。そう確信させるだけの力強さがあった。エナは目を離せなかった。
リーフは、エナが知らない古代語でセレスに呼びかけた。エナの背後でセレスが不快そうにした。
「あなたはその名の通りの存在だから、永遠にそのままなのかもしれない。僕たちは違う。何度でも傷つき、何度でも立ち上がる。そして何かに気がつき、あなたのようなもの達と戦う必要がなくなる。
あなたたちは必ず訪れるし、僕たちは悲しむけれど歩んでいくしかなく、そうできると自分を決めることが出来る」
リーフの言葉は、難解だった。少なくともエナはそう感じた。ふと、”悪魔はまるで現象そのもののようだ”というリーフの言葉を思い出した。悪魔が、恐怖、とか、離別、とか、感情や現象そのものだとするならば…。
「分かっているはずだ。僕は、お前の力になることはない。もう、物理的な力でしか、僕と戦うことは出来ない。お前は悪魔として僕に勝利することができない。まあ、ひとりの魔法使いとしてなら、僕が負けるだろうけど」
しばしの沈黙。エナは振り返ってセレスを見た。ふ、とセレスが不意に笑う。
「不幸なことにあなたは人。言葉と心を必ずしも一致させることが出来ない」
エナはぞっとして顔をこわばらせた。リーフを見ているはずの橙の瞳に、一時捉えられた気がしたのだ。
その怯えを見据えるように、ああ、やはり気のせいではなく、橙の瞳はエナを見ている。
「私に捕らえられた者が、呪いをかけられていないわけ、ないでしょう?」
凍るような寒気が足元からさっと駆け上った。突如息が詰まる。気道を氷の塊が塞いだような酷い苦痛に、エナは喉を掻きむしって前のめりに倒れた。
夢だと、ルイスは言ったのに――…。
突然の呼吸苦は死を垣間見せる。
いつまで続くのかと思った矢先、喉を塞いだ冷たいものが消え去った。十秒かその程度だったが、あれがもし、また突然、長時間続いたら――…。
エナは歯を食いしばった。
「くそっ」
つまり自分は人質だ――苦い気持ちが広がった。そして窒息の恐怖が無意識に蔓延って、寒気がした。
同時に、強い気持ちが反射的に現れる。この癖もリーフと一緒にいたから身に付いたものだ。
(だけどリーフさんなら大丈夫だ。負けないと言ったら負けない。リーフさんは悪魔に負けることはない…だからあとは、俺が負けなければいいんだ!)
手をつき、膝を付いて、顔を上げた。その時、ひやりとした自分の声が忍び込んできた。
(でも死ぬかも知れない)
頭を振って追い払おうとする。
(死ぬかも知れない)
(いや大丈夫)
(死ぬかもしれない。息ができなくなる)
(死なない! 大丈夫)
(死ぬかも…)
「違う、俺の声じゃないっ! 黙れ! 俺たちは絶対に大丈夫なっ…っ…!」
またも何かが喉を塞いで、エナを黙らせた。さっきよりはいくらか冷静に、だが苦痛に耐えようと手は首元を掻く。大丈夫、大丈夫、大体これは夢なんだからと、内心で唱えるが苦しさは変わらない。痛みに脂汗が滲む。
長かった。大丈夫と理由もなく唱え続けることだけはやめないでいると、いつの間にか息ができるようになっていた。
今度はどれくらい続いたのか分からない。気を失っていたのだろうか…気が付けばまた、闇の中。少し離れたところにルイスが立っている。
(次は死ぬかも――…)
どうにか身体を起こしながら、心の声に思わず息を呑む。
「違う、俺の声じゃない」
声が掠れてしまった。
んー、とルイスが真剣に考えるように唸った。
「あいつ何考えてるか分からないからな」
ルイスの声に、少し真面目な色が混ざる。
「死んだらごめんな」
ピシリと空気が凍るようだった。エナは、それでも、反射的に凍る空気を振り払う。一度目をつぶって、長く息を吐いた。
「別にルイスさんのこと恨みません。ルイスさんに守ってもらおうと思ってここに来たんじゃありません」
苦痛への恐怖で体は震えていた。ただリーフは負けないと言った、エナはそれにすがりついていた。
「けど…殺させないって言ったくせに」
呆れ笑いをもしてみせる。またいつ氷の塊が気道を塞ぐかと、内心では不安が止まらない。
ルイスはため息をついた。
「相手を油断させるのもひとつの戦法だと、教わっていなかったのか、余裕がなかったのか…残念だ。お前は思っていたより強い」
エナは表情を固くした――明らかに何かを間違えた。さっきまでの苦しみが、さらに増すことになってしまったら…。
(余裕がなかっただけだ。強くない)
言い訳のような思いが声になることはなかった。
( 1 / 2 )