風の都と双剣士
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昼休みを挟み、風の都周辺の魔物を片付けた。フィオリエはすっかりパーティのメンバーとも打ち解け、滞在する数日感、何度か掃討に参加することになった。
(たった数日で、またあの数、魔物が出現するのか…)
魔物。渦巻く悪意などがマナに伝わり、意図しない魔法として徐々に現れ、やがてそれは悪魔となる。そうなる前に、天使族が”意図しない悪い魔法”を魔物に変化させ、人が剣や魔法で倒すことができるものにするのだ――…と、どこかから得た知識をもっていた。教えてくれたのはエルミオだったか、何かの本だったか、両親だったか…。
夕方、帰宅する前に父親を探す。回復術士は、多分、まだ仕事をしているだろう。
負傷者は少ないとはいえ、存在する。今日のことだけではない。回復魔法というのは、体力を回復できない。怪我を治すのを早くするだけ、対象者の体力も消費するという大変な欠点がある。だから大怪我をしたとき、今どこまで治すのか・治していいのか考えて行わなければ、衰弱死もありえる。
守護団の救護室から、アンセルが出てきた。たしか、どちらかといえば軽傷者がいるほうの部屋だ。
「お疲れ様です、アンセル副隊長」
ああ、フィオリエ、とアンセルは朝と変わらぬ笑顔だ。
「今日はありがとう、助かった」
「こちらこそ、故郷のために少しでも役立てたのなら幸いです」
「また、お願いするよ。数日は滞在するのだろう?」
数日は滞在する。数日しか、居られないのだが。フィオリエは頷いた。
「はい。短期間ですが、お力添えさせてください」
アンセルは頷いた。少し控えめになった笑顔が、やはり短期間で行ってしまうのだなと言っている気がした。だから次の一言には驚いたし、多少なりとも感じていた申し訳なさが感謝に変わった。
「お前にも守らなければならないものが出来たんだなぁ、フィオリエ」
ふう、と心の奥底が動いた。少年時代にも、アンセルとそれなりに深い関わりがあった…気がした。
「…アンセル副隊長、失礼ですが、ここ400年の間に名前を変えられましたか?」
今度はアンセルが驚いて、考え込んだ。
「…あ、変えた…ような…変えてないような。…”アンセル”は真名ではないよ」
フィオリエが何を言う前に、ああ、とアンセルが納得する。
「そうか、それでか。フィオリエが俺のことを思い出しにくかったのは。時間のせいだけじゃなかったんだな」
「とてもお世話になったことだけは確信しております」
「それだけでいい。今の時勢で真名を出すわけにはいかなくなったから、すまないが、”アンセル”と覚えていてくれ」
少しもどかしさを覚えながら、フィオリエは頷く。
「…承知しました」
それから思い出したように、アンセルは父親の居場所を教えてくれた。
「今は重傷者を診ている。風の音が月の調べに変わるまで出てこないかもしれない」
月が山から顔を出す寸前、風の塔の音は変わる。あと3時間はある。
「そうですか。では、一度帰って、また来ようと思います」
「受付に声をかけてくれ。俺と父親の名前を出せば入れてもらえるようにしておく」
「い、いいんですか?」
フィオリエはまたも驚いて、アンセルにお礼を言った。父親に差し入れを持ってきて、受付に預けて、自分は外で待つつもりだったのだ。風の都出身とはいえ、400年も帰ってこなかった、ほぼ部外者だ。まして、今、この時勢。
あ、とフィオリエは自分が入ってもいい理由にたどり着いた。
(そうか、流石に守護団だもんな。俺一人くらいなら何かしでかしても押さえる力くらいあるか。そうに違いない)
そうでなければ入ってはいけないはずだ。どうにか納得して、安心した。そうに違いない。守護団はそうでなくては。
*
母親はデリヴェルを作ってくれた。
「あなたのお父さんは、これを入れるのが好きなのよ。フィオリエは、これ食べれなかったわね。今はもう食べれるかしら? 試してみる?」
少しクセの強い香草だ。デリヴェルは生地と生地の間に野菜や肉、香草などを挟み、3~4層のミルフィーユ状にしてくるくると巻いて作る。一言にデリヴェルと言っても、挟むもの次第で味はがらりと変わるのだ。ただし必ず香草が入る。
父親のと同じデリヴェルをもうひとつ。皆さんにも、と数人分をもたせてもらった。風の塔が優しい月の調べを降らせる頃、フィオリエは再び救護室のある建物を訪れた。
「アンセル副隊長から聞いています。どうぞ。今は、休憩室にいらっしゃるはずですよ」
受付の人が扉を開けてくれた。廊下に明かりはない。エルフ族の目には何の問題もなかった。
教えてもらった休憩室に行くと、部屋の奥、横になれる場所に2人が雑魚寝し、手前のテーブルでは2人が軽食をとっていた。食べ終わり、といったところだ。
「こんばんは、お疲れ様です」
控えめに言うと、手前の2人が小さな声で返事をした。父親は、まだ来ていないのか、もう出て行ったのか…。
たずねると、どうやらまだ来ていないようだった。
「私と入れ替わりです。ちょうどいいところでしたよ」
寝ていた2人のうちひとりも起き出して、3人が休憩室から出て行った。フィオリエはテーブルについて待つ。
(回復術士、もうちょっと休んだほうがいいんじゃないか?)
やがて気配がして、父親と、あと3人が休憩室に入ってきた。お疲れ様、と言い合う中、父親は少し驚きをにじませた。
フィオリエは持ってきた包を示す。
「母から、差し入れがあります。皆さんも、よろしければ召し上がってください」
父親を含めて3人はテーブルにつき、一人はお礼を言いながら「後で頂きます」と、即効で横になって眠った。
デリヴェルは、美味しかった。昔食べられなかったらしい香草は、むしろ好みだった。
食べながら取り留めのない話が行き交う。今来た4人は父親が回復術士で、あとは世話人らしい。休憩時間が違うが他にも何人かいる。先ほど休憩室にいたメンバーも、回復術士は1人だったそうだ。
「明日はゆっくり休みなよ」
父親の同僚が声をかけた。流石に明日は休みなのだと知って、フィオリエはほっとした。
「フィオリエさんは、もうずっとここにいるんですか?」
世話人の一人がふとたずねた。何気ない言葉だったが、父親やお世話になった人に言っておかなければならないと思っていた話だ。
「いえ、あと8日滞在して、『北』へ戻る予定です」
世話人が少し意外そうにした。今、故郷に残らないことを選ぶのかと。
仕方ないさ、ともうひとりが言う。
「『琥珀の盾』サブロード・フィオリエだ。あと8日ここにいるだけでも、大変なことだろう。な?」
父親から聞いたのだろうか。フィオリエは父親の表情を伺うが、読めない。
「俺は――…」
ここに帰ってくる前のことを、フィオリエは思い出した。
「一度、故郷に帰るかい、フィオリエ?」
言ってくれたのはエルミオだった。フィオリエは驚いた。
「なんでだ? たしかに最近、魔物が多いし、『西』もそうだって聞くが…」
エルミオはしばらく考えて、語り始めた。
「世界に、戦いはある。でも俺は、人同士が殺し合う戦争というものを知らない。それは昔、俺が存在する以前にあったこととして聞いている。魔法使いたちの戦争だ。あれは竜族によって粛清されたこともあり、終結した。その時にふたつの大悪魔がうまれた」
歴史上のこととして、フィオリエも一応知っていた。魔法陣の開発、力を得た魔法使い、権力の争い。なんだかそんな感じだったはずだ。
うまれた大悪魔、デュノラケルとステヴィウス。現在ではドマール族とディル族のある一族が封じているという。
渦巻く悪意などがマナに伝わり、意図しない魔法として徐々に現れ、やがてそれは悪魔となる。そうなる前に、天使族が”意図しない悪い魔法”を魔物に変化させ、人が剣や魔法で倒すことができるものにするのだ――…魔物が多いということは、悪魔になり得る”意図しない魔法”が多いと考えられる。
「魔法使いの戦争前に、魔物が増えたであろうことは容易に推測できる」
フィオリエの脳裏に、戦争のきっかけとなり得る出来事が浮かんだ。ごく最近のことだ。
伝説としてしか知らなかった、ルシの赤い本。ルシ、それは堕天使の子。彼女ははじまりの樹になる命の実を盗んだ罪で、赤い本に封じられていた。
それを、30年ほど前、ヒューマン族の誰かが解放したのだという。
その後どうなったのか、少なくともフィオリエは知らない。だが、もともとエルフ族やドマール族と、ヒューマン族、小人族、ミユ族との間にあった溝が顕著になったと噂できくし、『北』でもたまに感じる。
エルフとヒューマンか、と呟いた。
「だけど…エルフとヒューマンとの間でひと悶着あったのは、30年前だ。今更何か起こるか? エルフにとっては短い時間かもしれないが…」
まさかエルフ族のほうから仕掛けたりしまい…と、フィオリエは言えなかった。種族で一括りになど、できやしない。それに、ルシや、ルシを解放したヒューマンがどう動くか次第だろう。30年など、堕天使にとっては短い。まだどこかで生きているかもしれない。
「魔物はたしかに増えている」
エルミオは事実を再度口にした。それに、と。曖昧だが何かどこかに確信的な根拠をもって、こう言った。
「悪魔ではなく、ただの悪意…ちょっとした感情、些細な言動によって、何かが、加速して転がり落ちている気がする。…そして俺が悪魔なら、それを利用しない手はない。天使族はそれを防ぎたいのかもしれないが、魔物化できない程度の悪意は、人が武力以外で解決しなければならない」
エルミオは困ったように呟いた。
「一番の原因にはならないのに。一番厄介な相手だ…」
戦争、それがようやく現実味を帯びてきた。フィオリエはそれを知らない。だがたしかにそこまで迫っているのかもしれない。きっかけがあれば、もしかしたら、すぐにでも。
「来週の掃討が済んだら、一度、帰省してもいいか?」
『琥珀の盾』にも、冒険者ギルドからの掃討依頼や、団体からの依頼、自主的にやっておくべきことが多くあった。今後しばらく、減ることは多分ないだろう。今フィオリエが抜けるのは厳しかったが、予定を考えると今しかタイミングはなかった。だからエルミオは今、提案してくれたのだろう。
「もちろん。だけど、」
エルミオは付け加えた。
「申し訳ないけれど、一月後までには帰ってきてほしい」
分かっていた。サブロードとして状況は把握している。先週だって、大規模討伐のひとつを『旋風』にパスしたところだ。他同盟と連携しなければやっていけない。
(『旋風』のロードだって、たしか『西』出身のエルフ族だったろうに…セルヴァだって…)
セルヴァは、帰省を断ったのかもしれない。なんとなく断る場面が想像できた。セルヴァはかつていた場所や同志――あの戦士たちに、過剰な心配はしないだろう。同志だからこそ、セルヴァはセルヴァの場所でできることをするのだろう。
フィオリエは故郷に帰らなければならなかった。あっという間に時間が経ち、ずっと帰らないままでいた。しかし、あそこにはまだ、置き忘れてしまった何かがあるような気がしていた。
「ありがとう、エルミオ。ぱっと行ってぱっと帰ってくるからな。その間無茶すんなよ!」
そのしばらく後に、エルミオは“自分の言葉”を発した。
「さっきのは、フィオリエなら”帰ってきてくれ”と率直に言うだけの方がいいだろうと思ったから、ああ言ったんだ。一か月以内に帰ってきてくれと」
長い付き合いだから、フィオリエは特に驚くこともない。続く内容はなんとなく予想できる。
「そうか。それで、本当は?」
「うん、さっきのも本当だけどね。もしフィオリエが故郷に帰って、そして二度と帰ってこなかったとしても、俺は憎んだりしないよ」
「ふーん、そうか」
フィオリエに対してだから言えたことなのだろうと、理解していた。傷つくこともないし、特別感謝することもない。エルミオの言葉に裏はない。
フィオリエは改めて言った。
「ぱっと行ってぱっと帰ってくるからな」
「――…『北』に置いてきた、すべきことがあるんです」
まっすぐ向けた視線を、父はまっすぐ受けてくれた。それだけで、大切なことは通じたと感じるのは、なぜだろう。
フィオリエは半分本気の、社交辞令を続けた。
「場所は違っても、やってることは似たようなものです。数日間皆さんと行動して、熱意を受けて、それをもって帰ってまた『北』で頑張ります」
そうか、と世話人の一人が頷いた。
「お前の息子さん、立派になったな」
父親の同僚が、父親にしみじみ言うと、父親はふっと小さく笑った。それを見てフィオリエはほんの少し頬がゆるんだ。
父も母もここに留まると決めている。
昨夜、母親は言った。
「許してはいけないことも、あるのよ」
微笑んで、言った。
「話して分かり合えるのなら、素敵ね」
いつも通りの口調で。
「もしまだ何かが起こるのなら、私たちは黙っているわけにはいかない。誰かが”許さない”と言わなければ、たるんでしまうわ。私は今も昔もずっと自由で、今の私はこうなの。あなたも、何かを自分に決めているでしょう?」
それでいいのかと、昔なら、そう問うたかもしれない。許すことは難しい。だが許さないことはくたびれてしまう。そうやって生きていくのでいいのかと。何のためにそうするのかと。
何のためになんて、フィオリエは問わなかった。
感謝と少しの寂しさと共感を込めて、頷くだけだった。
昔苦手だった香草のデリヴェル。フィオリエは最後の一口を頬張って、うまい、と呟いた。
*
子供時代を過ごす広場は、今も、今の子供たちのものだ。
クロヴィスとフィオリエは、小さな飲食店――クロヴィスのお気に入りのメニューがあるらしい――で、いくつか並んだ長いテーブルの端のほうに座った。
「いつもの、ふたつ」
クロヴィスのそんな注文で運ばれてきたのは、家庭でもよく使う芋をメインにした具材の上に、チーズがたっぷり、こんがりした焼き物。
「意外と大人の味だから」
見た目からはそう思えなかったが、なるほど、ソースの香りや、使われている香草が、今のフィオリエの好みと合致していた。
「うま。だが第一印象と味が乖離してる」
「やっぱりそうだよな。俺もそう思ってた」
こんなことがあった、どうなった、ああだった、と、いくらでも話が出てきた。
「一番やばかったのがサンダーバード」
「お前あれ倒した!?」
「いや、その時パーティ組んでだやつが止めさした」
「魔法使い?」
「剣士」
「すごいな」
「あれ倒したら、剣に雷属性付与がきて」
「うん」
「けどその剣士は、炎属性だけ付けていく予定だったんだと」
「あー、残念だったな。でも雷でもいいだろ」
「うん。俺にその剣くれた」
「はあ!?」
食べ終わり、一通り楽しい話を交換し合って、やがてクロヴィスが言った。
「すぐ『北』に戻るんだろ?」
問いかけというより確認だった。
「もう少しいるよ。明日の掃討にも参加する」
「そうか」
おう、とフィオリエは頷いた。
「魔物が増えているのは、『西』だけじゃない」
らしいな、とクロヴィス。
「『北』も大変か」
「まあ、…『西』ほどじゃない印象だな」
「そうか」
「守護団、なかなかキツいな」
「今はな。…今は…」
魔物が増えているから。
本当に戦争が起こるだろうか。フィオリエはエルミオとの会話を思い出す。
「赤い本、ヒューマンの娘が解放したらしい」
そう言いながら、クロヴィスもあまり実感が沸いていない様子だ。小さな声で続けた。
「長老たちの怒り狂いっぷり、すごかったぜ。無言の殺気みたいなやつがさ」
やっぱりそうなるのか、と、フィオリエは気持ちが沈んだ。
「命の実の盗人、堕天使ルシだもんな」
「あれでいくつもの命が消えるらしいからな」
「…ヒューマンとは、交流は?」
「ないわけじゃないけど、なんかぎこちないな。…近々、途絶えると思ってる」
クロヴィスの声に不穏な音が混じっていた。また、戦争、というものが近寄ってきた気がした。
多分、クロヴィスも同じ思いだ。大きな戦い。敵意。自分の正義。許さぬ意思。それらが、もたらされる気配。
「俺はただ…風の都を守りたいよ」
フィオリエはただ頷くしかできなかった。
「命の実を盗むなんてとんでもない重罪だ。だけど、俺たちが生まれる前のことで、ルシはずっと封じられていたっていうじゃないか。解放されたっていっても、また繰り返したってのも聞かない。…このままルシのことなんて薄れていって、魔物も減って、いつも通りに戻ればいい…」
クロヴィスは低い声で最後に言う。
「…ってわけにも、いかないだろうな…」
フィオリエはふと、答えはわかっていたが、たずねてみたくなった。
「みんな都に残るんだろ? おまえも」
クロヴィスは頷く。
「大風に翻弄される木の葉の気分だよ。だけど俺は自分を知ってる。守護団、クロヴィスだ。やるべきことをやる」
フィオリエは微笑んだ。
「だよな」
そこに、お茶が運ばれてきた。あ、とクロヴィス。
「これもおすすめ」
「大人の味?」
「そう。俺のいつものコースの締め」
ほんのり苦い、すっきりした味と香りだった。
飲み終えるとふたりは店を出た。ぶらりと都を歩き回る。大抵は懐かしい場所だ。
「ここの階段、一回積み直したんだよ」
「へえ。崩れたのか?」
「うん。魔法練習してたやつが、誤射して全壊」
「おいおい、魔法大成功だな」
「威力あって実戦では有用だよ」
足の向くままに歩いていくと、子供時代を過ごした広場に続く道を通りかかった。
ふたりはそこを通り過ぎてしばらく歩き、階段を上り、池のある広場のベンチに腰掛けた。もうすぐ夕方だ。ここにも風の塔の音が降り注いでいる。どこかで誰かが笛を吹いている音もする。
「いつでも帰ってこいよ…って言いたいところなんだが…そうもいかないかもしれない」
「ああ」
もし本当に戦争が始まるなら…。
冒険者、特に『北』拠点の者は、中立が多いとされている。エルフ族でも、なんらかの理由でヒューマン族側につく可能性は大いにある。どうであれ、少なくとも『琥珀の盾』のフィオリエは参戦するわけにはいかない。
(始まるとすれば、エルフ族が、”重罪人である”ヒューマン族を粛清するっていう形か。ルシが現れればエルフ族はどうにかして封じようとするだろう。相手が堕天使で力の差があろうとも。
ルシを解放したヒューマンはもちろんルシにつくだろう。
以前から長寿種族とそうでない種族の間には溝があった。それが、こんなきっかけのせいで顕在化した。ルシのことなんて建前で戦い始める奴だっているだろう。
エルフはヒューマンに腹を立てている。ヒューマンはエルフに良い感情を持っていない。…これらの状況は確かにある)
いろんなことが脳裏を過ぎった。
そしてふと実感した。
(これが見納めかもしれない)
もう帰ってこないかもしれないという、それだけではない。もしこの場所に再び立っても、その時ここに都はないかもしれない。戦場で死ぬかも知れないと、日々意識のどこかにもっているそれと同じだった。確かに存在する。まだ可能性だ。だが現実だ。
「また明日、守護団でな」
「ああ、また明日」
また明日なんて。不思議だった。少なくともこの挨拶は最後だろう。
*
『琥珀の盾』フィオリエとして、守護団で数日戦った。
あっという間の日々、何回デリヴェルを食べただろう。作り方まで教えてもらった。
「フィオリエ、着ていたマント、繕っておいたからね」
母の言葉に、また、ふうっと何かが心の底で動いた。なんだっただろう。
「ありがとう」
出発の日、父親は仕事が休みだった。玄関先にふたりが出て見送ってくれて、心の底の”ふうわり”が膨らんだ。
「…ありがとうございました。…お元気で」
父親が穏やかに頷く一方で、母親はふふふっと可笑しそうに笑った。
「風邪も引きやしないわ」
それは多分、母親が普段通りに苦もなく言った、気遣いの一言だった。いつもこうして安心させてくれる。
都の出入り口に、クロヴィスが待っていた。柔らかい金髪が微風に揺れる。使い込んだ愛用の弓を携えている。午後から仕事だろうか。
よう、おう、と飾らない挨拶を交わす。
もう特別語り合うことはなかった。クロヴィスは拳を差し出す。
「餞別だ」
手を開くと、スペルストラップに似たものがあった。白木を加工し、彫り込み、風の都近郊で取れる銀色の石が丸く磨かれて、そこに編み込んだ紐で取り付けられていた。
「守護団魔法使い監修だから安心しろよ」
「お前の作った魔法具なんて大丈夫なのか大いに不安だなんて、まだ言ってないぞ」
「おい」
にやっと笑い合った。
好きに使え、とクロヴィス。
「お前が使うもよし、誰かに渡すもよし。役立ててくれ」
「ああ、ありがとう」
受け取ると、マナが微かに動いた。見ると、クロヴィスはフィオリエをまっすぐ見据えたまま言葉を紡ぐ。
「 《 我が友 フィオリエに 》 」
それは祝福だった。
「 《 そしてその友に ゼリュヌス の加護があらんことを 》 」
その詠唱の中には、明らかにクロヴィスの精霊名があった。ゼリュヌス。なんとなく聞き取れたその名の意味は、風の精霊。魔法は、贈り物に宿る。
クロヴィスは、魔法の腕を上げた。フィオリエよりもずっと。
「…《我が友 クロヴィスに》」
唱えても、魔法の効果は得られないだろう。それでもフィオリエは唱えた。真名の一部を明かしてまで祝福をくれた友に、どうして唱えずにいられるだろう。
「《そしてその友に カルスペ《刹那の白き雷》 の加護があらんことを》」
マナはかすかに動いた、気がした。クロヴィスは嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
「おう」
「じゃ、いつかまた」
あっさりとクロヴィスは手を振った。
「次は500年後かな?」
視線が合う。冗談を紡いだ口は笑っている。応えは決まっている。
「そうだな」
フィオリエは付け加えた。
「ちょっと100年くらい遅刻しても怒るなよ」
「知るか。かろうじて忘れないではいてやるよ」
「ありがたき幸せ」
400年も帰ってこなかったが、故郷。また400年後も変わらない気がしてしまう。
エルフもエルフの都も長寿だ…だが終わらないわけではない。長寿とは不死ではない。戦場ではヒューマンもエルフも、ただの命だ。どんなものも、戦場では、一瞬後に無くならない保証はない。
風の都は、砦としても有用だろう。残念ながら、冒険者フィオリエは、この砦は重要拠点になる予感がしていた。
所々に銀色の岩が見え隠れする灰色の山の斜面に、彫り込まれるように白い建物が並ぶ。
濃い青の葉が繁る樹が”設置”されている。空と太陽のような色の花が咲き、都を飾る。
山から湧く透明な川から引かれてきた清らかな流れが、街の所々で音を立てて輝く。
シンボルである風の塔では、風向きや風力によって様々な音が鳴る――風の塔に開いた窓《風の道》を、山を下る風・昇る風がびゅうっと通り抜ける音や、塔の内部に吊られた数々の金属や宝石などの《鈴》が響く音。ヒュウッ、シャラシャラ、リンリン、カロンカロン。
高い場所に、広場があった。そこは、都のエルフが、子供時代に自由を見つける場所。
そこにも、風が吹いていた。風の塔がカロンカロン、リンリン、シャラシャラと鳴り、音を降らせる。
都のエルフが、子供時代に訪れ、自由を見つける場所。大人たちには用のない広場。青っぽい葉を茂らせた木がぱらぱらと生え、白めの土がたまって所々に草花が顔を出す――確かに、そこで過ごした。
風の音。笛の音。友の言葉。父の言葉。その時の気持ち。きっといつか忘れるのだろう。それでも、400年後の自分は、ここで育った自分の先にしかありえない自分だ。
「いってきます」
応えるのは、母の声。
「いってらっしゃい」
そして、
「いってらっしゃい」
父の声。
どんなに遠くへ歩んでも、はじまりは、導は、変わらない。
昔ここに置いてきたものを、今度は残さないでいけそうだ。
先へ進もう。自分で決めた道を。
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