エナ -師匠のこと Ⅴ.「いつか」の日
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***
おい、おい、とあんまりうるさくて目が覚めた。
「…るさい」
目を開ければ、くせっ毛の黒髪と、紺色の瞳の男が見えた。ディル族の魔法使いだ。名をウェインという。魔法使いにしては図体がでかい。一匹狼のこの冒険者とは、目的、依頼が被ることが多く、成り行きで何度もパーティを組んできた。ただそれだけの仲だ。
それだけのはずだが、そいつが見下ろしていた。
「なんだ、口だけは余裕だな。帰るぞ、いいな」
「あぁ」
疲労していた。目を閉じる。嫌な汗で髪がはりついて少し鬱陶しい。
ウェインは空間転移が使える魔法使いだし、冒険者だ。お互い世話になるつもりはないが、今は、頼ろう。それで見捨てられても恨みはしない。今だって、捨て置いてひとりで進んでくれても構わなかったのだ。
息ができないというのは、死の恐怖に直結する。少なくとも僕はそのようだ。いっそ、さっと死ねる方が楽でいいと思う。息ができないし死ねないというのは、なるほど、流石、酷いもんだ。
――…エナがこうじゃなくて良かった。
「何を笑ってる、そんな余裕あんなら歩け」
「…ああ」
「歩けるわけないだろアホか」
「いや、案外いける。降ろせ」
「背負い直す手間を考えろ。やだね」
「…」
降ろす気はないようなので諦めた。
背負われて、街を行く。空は藍色と橙色だった。少し温度の下がってきた空気。普通に呼吸ができるというのは、いいことだ。
宿に着く頃には、疲労が残るだけだったが、特にやることもないので、装備を解くなりベッドに転がった。
「あ~あ、こんな感じか」
ウェインはもう一つのベッドに腰掛けて、愛用の小さな櫛でさっさっと髪を撫で付けている。珍しく黙っているのは、多分、多少なりとも動揺はしたんだろう。
「…悪かったなウェイン」
「あんたが謝ると気持ち悪いな」
「あ、そ」
日が傾いていく。何も言わずにウェインが、部屋の入口付近にある魔法陣――木の棒で組まれていて、一本動かすと魔法陣が完成するようになっている――を操作して部屋の魔法灯をつけた。炎色の光が部屋の壁の台座で光る。
次はいつ、エナから《剥奪》した病魔呪いが顕れるのだろう。
依頼進行中に、息苦しくなってきて、数分のうちに息ができなくなった。空気は喉を行き交っているはずだったが、まったく、体に、行き渡っていないような、苦しいとしか表現のしようのない状態に陥った。咽び、足掻くしかなかった。とんだところをウェインに見せたものだ。ウェインで良かった。
…なるほど思っていたより苦しい。でも、なお、良かった。
「…僕はヴァース村に行く。依頼は、悪いが他のやつとやってくれ」
ウェインは、いつのまにかほつれさせていた外套を、器用に縫い始めていた。ヴァース村、とのろのろと繰り返す。
「花でも買いに行くのか」
「呪いが発現したらまた来るように言われてる」
「へえ」
目を上げた。
「随分、腕のいい魔法使いがいるんだな?」
「うん」
「…気が削がれた。依頼は別の奴がやるだろ」
一針、縫う。一度受けた依頼は、基本的に最後までやり遂げる…ウェインもリーフもそういうスタイルだ。気が削がれたなんて理由でやめるウェインではなかったはずだが。
「まさか気にしてる? いいよ、行けよ」
「俺をなんだと思ってる。人の子だぞ」
縫う。ほつれは、ほとんど直った。リーフは少しだけ申し訳なくなりながら、それよりも、新しい発見に感心した。
「あんた思ったより優しいよ」
「あんたが言うと気持ち悪い」
「そうだな」
「あんたは、看取られたくなんぞないだろうが、そのへんは俺が勝手にする。俺に悔いを残させるな」
「んん、まだ死ぬつもりないけど、分かった。じゃ勝手に言うだけなんだけど、ありがとう」
なんとも言えぬ顔でウェインは息をついて、後ろ頭をかいた。あんたが言うと気持ち悪い、と言わずとも分かった。
*
流石に戦場に戻る気は起きなかった。しかし悪魔を阻み続けること以外に、何を、どうやって、恩返しが出来るだろうか。
ヴァース村であらゆる人のいろんなことを手伝いながら――我ながら畑も家事も、力仕事も出来る――、エラーブル村を何度か訪ねた。
もう一度、呪いの発現が来たときに、ふと、故郷を思った。都に憧れた姉の護衛として旅立った、世間知らずの少年だった頃。ディーアという辺境の村だ。無力感と恥と、姉の一切を取り戻せなかったまま、帰れずに、ずっと旅をして、いろんなことが起こり、結局、帰っていない。
…でもこんな姿を見せるわけにもいかないが…――父親を見返したいと言う、エナのことが脳裏を過る。帰らなければ、心残りになるだろうか。あるいは帰れば、後悔になるだろうか。
「どう思う、ウェイン」
「知らん」
「うん。一度帰ろうかな」
両親はハーフエルフだ。農業を営んでいる。畑仕事と剣の基礎なんかは少年時代に身につけた。
ディーア村は相変わらず農業をやっていた。村へつづく道が少し綺麗になっていた、気がする。
ハーフエルフの数十年は、人生の中で長くはないが、それでも数十年だ。
「おお、生きてたか。手伝ってけ」
淡白さは父親譲りだったのかもなと、畑で再会した父親の第一声で思った。
「あんた鍬似合うな」
「元々こっちが本業だったから」
かたくなに鍬を持たなかったウェインは遠くで見ていたが、一度だけそう声をかけられた。
畑で作業しながら父親へ、村を出たあとのこと、姉のこと、やってきたこと、戦ってきたこと、もう帰ってこないこと、弟子のこと、飾りもごまかしもない言葉でそこそこに話した。
父親のほうからも、兄弟のこと、母親のこと、村のことを聞いた。兄ひとり、妹ひとりがいたが、兄は何年も前の、村の回りの魔物討伐で帰らぬ人となっていた。妹は村の中で嫁いで、子供がいるらしい。母親は、街に出かければ布を買い、孫の服を作るなどしているらしい。
正直ほっとした。それを見透かしたのだろうか、父親が言う。
「お前たちは村にとどまる性格じゃなかったしな」
「…うん、まあ」
「何かひとつやりきれたんなら、いいことだ」
「…ありがとう」
「まあ働いとけ。何もしないでいるとお前の心残りになる」
「うん、そうする」
呪いの発現は、不定期だが、どうも嫌な予感がするので、父親と畑で話しただけで村を後にした。
「仕事が早く済んだ。達者でな。…鍬より剣が似合うようになったなあ」
そう? と返しながら、むず痒く、しかしここで意地を張るほど子供ではないので、父さんも元気で、と別れた。
頻度が、増していって、いつか目覚めなくなるのだろう。それは予感というより確信だった。対抗する魔法のおかげで多少はマシなのだろうが…。何度目か目覚めた時、小さな療養所の天井を見つめたまま、ふと、そこにいるウェインに尋ねた。
「なあ、あんたスペルストラップどれか要る?」
「いらん。俺ぁ自分のことは自分でしたいようにする」
「あ、そ」
「…望むんなら、…」
「…ん?」
「いや。もっと強力な眠りの呪いをかけてやることも、出来なくはない」
リーフは多分そうしないだろうと、分かっていてそれでももし、そう望むならそれでもいいのだと、提示したのだった。リーフには分かった。その提案は確かに、今、魅力的に思える。そうしてなんら悪いことはないと思う。
「…アリアさんにも同じことを言われたけど」
世話になっている旅医者のアリアも、そう言ったのだ。苦しみから逃れることは負けではない。自分に適切で一番良いやり方をすればいい、と。
でも眠ってしまえば、きっとそれから、目覚めることはないだろう。呪いの発現がないとき、まだ、自分のことを自分で出来るのだ。ならばまだ、とリーフは思う。
「…正直、戦場で斬られたり魔法でやられたりして死ぬと思ってたから、なんていうか…。…まあ、僕が選んだことなんだけど」
「戦場とベッドの上じゃ、覚悟の仕方がちっと違うだろう」
「そうだな。ま、そもそもは戦場のことが原因なんだけど」
「ああ。…俺は昔、医者になりたかったよ」
「ふうん」
「フェアじゃないと思ったから、話しただけだ」
「ああ。…なあ。世話になるつもりなかったけど、それはそれとして、助かってる。悪いな」
「別に。どうせ立場が逆ならあんたもそうしただろう」
「さあ。…どうかな」
*
十一月だった。
ある日、息苦しさは、あるところを越え、浮遊感を伴って、むしろ心地よさにすら変わっていった。
冷たさも、苦しさも、遠くなった。街の音は窓のずっと外。
きっと誰しも最後は独りだ。そのほうがいい。僕は、見られていたくない。誰も、傍で泣かなくていい。お前の未来を信じるだけでいさせてほしい。ああ、全く本当に、我が儘ばかりだ。僕はいつも勝手で、自分の思うままにばっかり生きてきた。それなのにたくさん、たくさんの人が周りにいたんだ。僕なんかのまわりに。それでも、無力を痛感する苦しみを知っているから、感謝して感謝して、できることをしてきたつもりだ。
僕は、あいつを阻害できただろうか。少しでも誰かが、傷つかずに済んだろうか。
結果しか残らない。見た笑顔のどれかはきっと、僕が守ることに貢献できたと信じたい。
ここからは、独りでいい。
静寂だけが、あればいい。
誰もいないはずの部屋にはしかし、気配があった。
聴き慣れた声がする。肉声なのか、判断がつかないが、確かに、あいつの声。世界はあいつを、”悪魔リューノン”と呼ぶ。
悪趣味で、僕に復讐しきれなかったあいつは、せめて僕の情けない死に様を見に来たようだ。最初は、復讐したかったのは僕だったはずだけど。
あいつがそこにいて見下ろしている。分かる。いい様だなと、苦しめと、孤独を感じて死ねと、そう望む視線が、注がれている。なんという矛盾だろう。あいつはこの矛盾を、分かっているのだろうか。
長い付き合いだ、別れくらい告げてやろう。
「やあ、おまえを憎んだよ、リューノン。その節はよくもやってくれたな」
するとあいつはもっと近くに寄ってきた。
遺されたあの時。遺していく今。ぽっかりと心に穴が空いて、塞がることなど考えられなかった頃もあった。今、もう塞がったのかは分からないが…――どこにも、永遠の孤独は無かった。それは分かった。
「死ぬときは誰しも独りだと思っていたけど、お前は最後まで僕を、孤独にはさせないんだな、リューノン」
ひそやかに鳴っていた笑い声が途切れた。気配は凍りつき、動揺する。なんだ、矛盾に気が付いていなかったのか。変な奴。
「お前と一緒なくらいなら、独りのほうがよかったかもしれないけど」
僕が話しかけるので、あいつはそこにいるしかないような、居心地の悪いような焦りをもちながらも留まっていた。
「リューノン、お前のことを《孤独》と呼んだこともあったが、もう、お前は孤独を与える存在ではない。
お前は僕の人生の半分も、僕の傍にいたんだ。
さようなら、僕の《宿敵》。せいぜい人と妙な絆を築き続けるがいい」
そして、あいつの気配はわからなくなった。それはきっと、僕がこの世界からいなくなったからだ。
*
予感がした。
ディル族は時々、予知と呼んでもいいほどに何かを感じ取ることがある。ウェインはこの時、それに操られるように立ち上がり、気づけばリーフの部屋のドアを開けるところだった。
「おいリーフ」
室内を見回すまでもなく、ふたつ、察した。
ひとつは、睡眠にしてはあまりにも動きと色のないベッド上。ひとつは、その傍らにぽっかり空いた、マナの無い場所。真空が保たれないのと同じように、空気と酷似した動きで、そこはすぐに均されて埋まったが。
どういうことだ。
空間転移でだって、こんな状態にはならない。マナを一時的に変化させて魔法とすることはできても、マナ自体を消すことは出来ない。マナや魔法の塊――精霊や悪魔も含む――を消した痕跡、それくらいしか思い当たらない。
この戦士が、ひとつの、なにかを、消した痕跡。
そこにマナの空白が明らかに感じ取れるほど――今はもう、均されて分からないが確かにあった――、恐らく名のある、この戦士に因縁のある悪魔が…多分、消えたのだ。
悪魔を消す?
どうやったらそんなことが成せる? どうやったら。不可能だと切り捨てられない。
なぜならこいつは。こいつなら。
ウェインは、リーフが最も長く共に戦った魔法使いだ。ウェイン自身、薄々そう感じていた。一匹狼の剣士と何度も共通の敵をもち、ついでだからと協力しあうだけのパーティを組み、目的のためならお互いに見捨てあえる程度の薄情さと真面目さをもっていた。
リーフが、恐らく特定の悪魔と因縁があったことは察していた。
ひょっとしたら、その悪魔の本質や、真名に、たどり着いていたのではないか。そうでなければ、こんなことは、ありえない。そう、逆に、そうであれば、この、ひとつの悪魔を消したのであろう状況が、ありえるのだ。
ディル族の魔法使いは目まぐるしく、3つの可能性を思う。百歩譲って、この剣士が出来るとすれば…悪魔の性質を見抜き、それを完全に否定することか。
炎の魔法に「水」と名付けることが出来ないように、性質の否定は不可能、あるいは存在を否定することになる。
悪魔は、広義では、魔法だ。極端に偏った性質をもつ悪意の魔法。性質を、否定されてしまえば、その悪魔は、その悪魔として存在出来なくなる――…理論上は。恐らくは。
――そんなこと。狙ってもなかなか出来やしない。いや、意図せずやったのだろうか? それとも、いや、《道連れ呪い》は剣士には荷が重いし、いやそもそも特定の悪魔と長くやりあうことが…――。
頭がくらくらしている。
友とも、相棒とも、言えないくらいに浅い関係だ。最も大事なもののために、お互いそのようにしてきた。最も信頼のおける、なにも知らない相手だ。
その男の、おそらくは勝利を祝うべきか、それとも死を悼むべきか。いいや迷うことはない。悲しむためには色々と足りないのだ、そのはずだ。
「…やるじゃねえか…」
しん、とした部屋。小さく笑ってウェインは、リーフに近づいた。眠るばかりの顔。ぴくりともしない。命ある世界にとっては異質に感じられるもの。
「…おい」
蒼く静まり返ったような気持ちの中にふと、リーフの弟子のことが思い浮かんだ――…。
「…じゃあな」
…――後のことは知らないが、知らせてやるくらいはしてやる。そうでないと気がすまない。人は正しく悲しまなければ、歩いていけない。
***
冷気の魔法をかけてくれていたらしい、というのは、後で知った。
白布をかけて、じっと止まったような時間の中で、空気だけはいやに澄んでいる。
夢にしては明るすぎた。
顔を見てしまえば涙が止まらなくなった。
――…なんで俺いっつも間に合わないんだろう。
肌は固くて、冷たいものだ。知っていた。母もそうだった。死んだ人はきっとみんなこうなんだ。
ひとしきり泣いて、泣いて、ふと周りの人たちに思い至った。深呼吸みたいなため息をついてなんとなしに見回す。
じっと立っているウェイン。むすっと唇を結んだまま、虚空を見つめている。
すぐ近くにいるかと思っていたオルトは、やけに遠くにいて、目を腫らしていた。
エナは、どうしてそうしたのか、理由もなにも無かったが、立ち上がると、ふたりに頭を下げた。
「ありがとうございました」
頭を下げ続けた。分からない、分からないが、この人たちが、いてくれて良かったと心の底から思ったのだった。理由を考えればきっといくらでも思い当たることはあるだろうが、この時はただ、この一言しか出てこなかった。
エナが思うよりもずっといろんな人たちが、代わる代わるやってきた。
同盟所属もしていないどころか、冒険者ですらないひとりの剣士の訃報をその日のうちに受け取れるのは、転移鞄――手紙などを空間転移させる鞄で、同盟のロードなどしか所持していない――を持っているような人だけのはずだ。それでもたった二日ほどの間に、エナと面識のない人だけで十人ほどは来ていた。他に、クレィニァとココルネ、リオナなど知っている人もいた。
根無し草の戦士など、例えばエナ自身だって、誰にも知られないこともありえるし、せいぜい、風の噂で流れた訃報を、受け取って墓の場所を知った戦友のうちの何人かが時を経てからやってくるとか、そういう程度だと思う。エナの中の常識は、そうだ――以前組んでいたパーティの仲間から聞いたことだが、なるほどそうだろうと、思ったものだ。
ひとり、雰囲気の違う人がいた。その人は、藍色の外套、フードを深く被っていた。声からして男性だ。彼について行くもうひとりは恐らく女性で、やはり同じ藍色の外套とフード。
「リーフ殿」
男性は静かにそう呼びかけた。エナはずうっと、こうして、知らない師匠のことと、その知人あるいは戦友たちを、部屋の壁際で見るともなしに見守っていた。
男性の所作は、なんと言えばいいのか、なめらかだった。剣士が戦場に適した動作をするように、その男性は、どこか儀式的な美しさを伴うような動作で、エナには馴染みのないものがあった。それでいてただ形式ばったものというわけではなく、それが男性の身に付いた所作で、そっと触れる動作など、心からくるものだと解った。男性は長く、何も言えずにそこに居た。
「ありがとう。私たちは闘えるようになった。私たちは何かをのこすことができる。リーフ殿は多くをもたらした。少なくとも私たちにはそうだ。私はまだ還らぬ。リーフ殿の助けたものたちもまだまだ還らぬだろう。私もアイカも、皆も居る。どうか安心して、空と、海と、はじまりの樹へと、還りなさってくれ」
彼は、エナにも聞こえないほどの声で打ち明けた。
「戦友よ、しかし私はやはり、寂しいぞ」
男性はいとも自然に、エナのほうへやってきた。のぞく空色の瞳が、下がり気味の目尻が、優しい。分からないが多分、ヒューマンではない。年月を経た優しい雰囲気と、まだ皺もない外見が一致しない。
「リーフ殿の戦友ですか?」
戦友、とたずねられて、エナは頷けなかった。
「弟子です」
そうか、そうかと、男性は、深く、良かったとも言いそうな声色だった。
「では、私は、新たな良き戦友を得られるかもしれません。ますますリーフ殿に感謝せねば。お弟子殿、次に会えた時には、名乗り合いましょう」
そうして藍色の外套のふたりは去っていった。
未来の予感が微かに、まるでわずか隙間から差す朝日のように、エナの心に灯った。それは、埋もれていたが、きっと元々あったもので、そもリーフから授かったものでもあり、これから掴み取れるものであろう。
一番、戦友となりたかった人の隣に並ぶことは適わない。代わりなどはない。それでも。
*
そっと去ろうとしたウェインを、呼び止めることが出来てよかった。療養所を出て少し行った道には、夕暮れの近い影の長さ。人はまばらで、ウェインの他に知った姿は無い。
セレスタイトと、ルイスとの戦いから、大体一年経っていた。エナはずっと考えていた…あの日からエナは悪夢を見るようになり、”療養”することになった。あの戦いでリーフは一切呪いを受けずに済んでいたのだろうか。今日、なぜ、戦場ではなくベッドの上だったのか。
やはりあの日のエナの力不足があって、もしかしたらそのせいで、リーフはなんらかの悪い魔法を抱えていて、多分それをオルトや他の魔法使いたちは分かっていて…しかしリーフのことだから、それを口止めするだろう。エナには知らせないようにするだろう。そして言うんだろう、僕の采配、僕の決断、僕の生き方はこうだから、などと。
そんな推測が、当たらなければいいという願いと、それがリーフの思いなら聞いてはいけないだろうという言い訳のような気持ちとがあった。恩人たちにだって、聞いたら、あまりにも答えにくいことだろう。
でもウェインになら、聞いて然るべきだろう。最後まで一緒に戦っていた人に、最後の様子を聞くくらいは。
「俺はやつのことはよく知らん。医者に聞け、知らせてやるくらいはと思ってあんたに知らせただけだからな」
「きっと教えてくれません。リーフさんは口止めしてると思います。去年、俺たちは、悪魔と戦ったんです。リーフさんもそこで呪魔法を受けたんじゃないかってずっと考えてました」
リーフと話し慣れていなければ、言い返せなかっただろう。だが、そう、今を逃せば、何も分からなくなる。そんな気がした。
「呪いのせいですか」
真っ直ぐ問いかければ、ウェインは、じっと影の中で考えていた。紫色の雲のかかる空、村を背景に、じっと。
「病魔呪いってやつだ。知ってるか」
なにか悪意が蓄積して長い年月を経て発現するもの、あるいは、強い悪魔が残していくものもある。病気と区別しにくい。
エナは頷いた――…だから、ベッドの上だったのか。
きっと療養所に入ったことも、アリアはもちろん、オルトも知っていただろう。
「呪いが発現してる時以外は、自分のことも自分でやって、きっちり思うようにやっていった。…弟子の。あんたに知らせたのは俺の勝手だ」
お互いに、預け合わないという、リーフの戦友…こんなだから、相棒になったのだろう。
知らせてくれなかった、それは多分優しさだ――黙っているのも、オルトや、ヴェイルや、ソリは、つらかったかもしれない――それでも、なんとなく蘇ったのは、悪夢の中で聞いた「来るな」の叫びだった。
「おい、弟子の」
「…はい。…エナです」
「いらん、俺はあいつの大事なことまでは背負わん。弟子の、あいつはなかなかに自分勝手だったろう」
「…はい」
すみません否定できませんリーフさん、と、心の中で謝っておいた。
「もう少しそこを真似していいんじゃないか。あいつの周りはなんでか優しいやつが多い。あいつが存分に戦えたのもそのおかげが大きいだろう。だが、あんたも他のやつも、もう少し勝手でいい。見てて俺が気持ち良くない。
あいつの戦い方と、依頼をこなす姿勢と、自己中さは、あんたは持っていったほうがいい。俺が勝手に思うだけだがな」
この人は、と、エナはなんとなしに思う。この人も優しいのだ。勝手に、リーフにここまで付き添って、エナに知らせてくれて、今、言葉を交わしてくれているのだ。ぶっきらぼうな言い方に悪意は感じられず、寧ろくるんだ優しさがあるように思えた。俺の勝手、俺の勝手と、言いながら…リーフが、僕の生き方、僕の決めたこと、と言うのと似ている。…ちらと、口の悪い父親が脳裏をよぎった。
はい、と、返事をして、エナは加えた。
「それと、食事をちゃんと摂ることも」
は、とウェインは一瞬ぽかんとして、笑った。
「ははは! 違いない。しかし散財しないようにな」
「リーフさんの引き止め役だったんで、そこは大丈夫です」
「そりゃあ頼もしい。なんだ、弟子のほうがしっかりしてんじゃないか」
「ありがとうございます」
ウェインは夕空のほうを向いた。向いたが、そのまま影は佇んだ。
「あいつは本当に勝った。…あいつはひとつの悪魔を道連れにした」
「え」
どこか感嘆すら含む声が、突拍子もない発言に信憑性をもたせていた。どういう、と訊きかけたエナを遮ってウェインは大きく一度首を振った。
「いや、これこそ俺のただの推測か、空想みたいなもんだ。…もうひとつ、あいつが勝ち続けるためには条件があるんだろう。それくらいは分かる。俺も戦士だからな」
そうして、ゆるく、ひらっと手を振った。
「時間薬も大事だ。焦らんでいい。そんな時は誰にだってある」
「…」
「じゃな、弟子の」
「…はい」
ありがとうございますの言葉が、途切れたが、伝わっただろうか。伝わっても、いらん、と言われるだろうか。
紺色の外套はひらり、夕色の中に黒くはためいた。
道を曲がって見えなくなるまで、師匠の戦友を見送った。
何がなくなっても日は暮れていく。
***
ざわめきは、無音よりも静かだと思う。冒険者ギルド、その建物の、大きな掲示板に向かって、エナは手頃な依頼を探していた。くたびれ気味の紙に少し重なりながら、まだしゃんとした依頼の用紙が貼られ、そうしてびっしりと、掲示板は埋まっている。大体レベルごとに貼られているが、ほかの条件や内容は雑多だ。なにしろ、何でも屋、とすら言われる冒険者。ただのバイトのようなものも貼ってあったりする。
推奨レベル、とあるが、大抵は、ここを満たしていないと受けられない。レベル50になったエナは、そのあたりを眺める。
――推奨レベル:魔法使い・30~50。他・45以上。
――内容は、ティークの荒地の魔物退治。
…これは多分、冒険者のための、企画のようなものだ。ティークの荒地は、このへんじゃ、レベル上げのための場所として有名だ。比較的安全にレベル上げを行える。ただ、個人で行くと、魔物の数が多い時に危ない。
魔法使いが多めのこの国の、魔法使いがレベルを安全にあげられるようにする企画だろう。依頼者は、やはり、そのような計画を何度もしたことのある、国魔法使いのケイアだ。参加したことはないが、これは多分、前衛は集まりにくいのではないだろうか。報酬は、普通。良く言えば、低レベル魔法使いと組む時の良い練習にはなる…。
魔法使い、か――…エナが接してきた魔法使いは、昔組んだパーティの仲間や、一時的に組んだパーティの魔法使い、そして…あとはあまりに遠い、高くにいる、しかし隣にいてくれるような、尊敬すべき人たち。
――あの人たちも、ずっと昔はこういうのに参加したりしたんだろうか。
レベル50、冒険者歴11年、もうすぐ24歳。白い剣と、いくつかのスペルストラップ、セレスタイト戦の前からはベルト型の防具をひとつ、そして、左腕の前腕を守るガーダーを、師匠から受け継いだ。ガーダーは革の下に、薄桃色の金属、オリハルコンが使われている。
悪魔との戦いには、まだあれから、挑んでいないし、当たっていない。ルイスとセレスタイトも…依頼にもそれらしきものが見えなくなった。どこかで力を蓄えているのだろうか。
いつか。
いつかまた姿を表す。
焦るなと、いろんな人から言われてきた。悪夢は、オルトがくれた魔法や薬草を使えば見なくてすむ。相手が力を蓄えているのならこちらも、力を蓄えてやる。
契約の理由。叶えたいこと。目的。
何もわからないままでも今、今できることを…。
「…国魔法使いケイア…!?」
背後でつぶやく声が聞こえ、エナは振り返った。
淡い金髪に白いローブの男が、大股で歩いてきた。クエスト情報に釘付けだ。青の目が輝いている。エナと、もう一人ガタイのいい冒険者が、ぶつかりながらも彼をよけたことに気付いていない。
「募集期間…いける…レベル、よし…よし…!」
「おい。おい、ちょい」
ガタイのいい冒険者が、割り込み男をかなり睨んでいたので、エナは強引に割り込み男を引っ張って掲示板から離れた。
「な、なっ、なに、なんですか」
「何ですかじゃねえよ、お前、睨まれてたぞ」
「えっ? な、なんで?」
狼狽えて、考えながらたずねる。若い…エナは直感した。多分見た目通りの年齢だ――年月を顕著に外見に反映するヒューマンと小人が身近に居た、エナは思う。
とするとこの割り込み男は、多分、10代後半。瞳はディル族の特徴をもちくっきりして少々黒目がち。だが耳がすこし尖っている――エルフ族も半分混ざっているだろうか。
「割り込んだ自覚ねえの?」
「えっ」
はっ、と割り込み男は掲示板の方を振り返る。例の冒険者はまだ掲示板を見ている。
「謝ってくる!」
「あ、おい」
宣言してからの行動は早かった。真剣な顔して彼は、大柄な冒険者に声をかけて、潔く謝って頭を下げた。エナは内心ひやひやした――…相手によってはこれで、関係ない因縁までつけてきて、余計なおおごとになることだって、ないわけではない…。
幸い、相手も悪い人ではなかったようで、いささか目つきを和らげて、なにか短いやりとりした。遠くで見守っていればやがて、ほっとした様子で割り込み男が戻ってきた。
「いい人だった」
「おう、よかったな」
「あの、あと、貴方に…割り込んですみませんでした」
「ああ、うん」
あんまり直球なので、どうしたものかと、エナはすこし困った。
「…あ、そういえば、あの募集、応募するのか」
「え? あ、国魔法使いケイアの? もちろん! これまでも行ってみたかったけど、なかなか機会が合わなくて…今回のは募集出たばっかりみたいだし、レベルも合ってるし、ぜったい行きます!」
また彼は、きらきらと瞳を輝かせた。国魔法使いケイアのファンか何かなんだろうか。
「ふうん。どんな感じか知ってる? 単純に、魔物退治してレベル上げか?」
「そうらしいですよ、ウィザード・ケイアは来たり来なかったりらしいけど…大魔法使いの魔法を垣間見れるチャンスなんですよ…!」
どうも話していると、魔法の話にそれていくようだ。
ともかく、魔物退治してレベル上げして、報酬を普通に貰えるというのは、美味しくはないが、悪くない。低レベルの魔法使いが集まっても、まあ、国魔法使いがいるなら、なんとかなるだろう。頼れる主催者だ。
「俺もいってみようかな」
「お! じゃあ! ちょっとの間、一緒によろしく!」
「応募して、通ればな、よろしく」
「通る! 通れ! 行こうぜ!」
はしゃぐ、きらきらした笑顔の魔法オタクは、胸元の冒険者証を見せた。黒系のフードの着いた襟に隠れ気味だった銀色の丸いバッジには、Lv44の魔法使いであることが示してあった。取得は約7年前…――7年前? 何歳で取ったんだ? 若すぎないか?
第一印象とは、何か、違うようだ。エナは割り込み男のイメージを早くも修正し始める。見かけによらず、結構、頑張っているようだ。
「俺はレン。よろしく!」
いささか無邪気すぎる笑顔だが、何を抱えているのだろう。分からないが、思ったより、一緒に頑張れそうな相手だ。
「よろしく、俺はエナ。剣士だ」