クレィニァとトドマリの門番
『緋炎の月』ロード・クレィニァが旅立つ理由。ひとりのトドマリとの出会い。
空の世界しか知らなかったクレィニァは、地上の現実を知る。@1570年頃
そこに、はじまりの樹が生まれた。
根が大地を掴み、枝が空を押し上げ、その世界は始まった。
はじまりの樹の《葉》から生まれた、神と呼ばれるものたちと、精霊とよばれるものたち。
はじまりの樹の《実》から生まれたヒト――ヒューマンやエルフ、ドマール、天使といった種族や、動物と呼ばれるものたち。
はじまりの樹の《息》、世界に満ちるマナは、生き物たち自身や、その心に応じて姿や性質を変える。
空人。
根が掴みそこねた空の大地に、鳥の姿をした彼らは誕生した。
*
私がまだ西の故郷にいた頃。
私の位はスザクの中でも下位のものだった。
家族という概念よりも、部族(スザクなど)と家系が重視される空人の中、我が一族の系譜の一番下の群にいるのが私だった。
私は大半の時を空で過ごしていたが、地上のトドマリたちに会うこともあった。それは幸運なことであった。
トドマリとワタリ以外の部族は、一生を空で過ごす者が多い。空は豊かだ。降りてから分かったことだが、空は地よりもマナが濃く存在していて、地上の種族の想像をはるかに超えた豊かさをもっている。故に、降りる理由などありもしないのだ。
私には降りる理由があった。
我らが空の国には、地上からの入口もある。その門番を勤めているのは、一生を地上で過ごすトドマリたちだ。彼らは空人で唯一地上に国をもつ。その国の中に空の国への入口があり、トドマリたちは交代で門番を務めるのだ。
そのトドマリたちと定期的に顔を合わせる仕事がある。それはスザクの下位の者か、タカの上位の者が行っている。地上に降りることは、スザクの中では忌避されることであるし、戦士であるタカの中では忌避されることであるがゆえその任をこなすことで尊敬される。
私は、ヒトの言葉で言うところの「上司」と共に、その任についていた。もちろん私の仕事はそれだけではなかったが、ここでは語る必要はないだろう。
ともかく、私は成人してから長い間そのような仕事に就いていた。
地上は空と違ってマナが薄い。私たちの炎や風が、感じられなくなる。妙な喪失感と不安感が心を覆う――国の魔法騎士とも言われるスザクが地上に降りたがらないわけだ。
それにも次第に慣れていった。
私より若い者も数名仕事に加わった。
そんな頃、あるトドマリと出会った。
ヒトの言葉で空人の名前は発音出来ない。私自身、クレィニァと呼ばれるが、本当は――。
私の出会ったそのトドマリの名を、強いてヒトの言葉で呼ぶのなら、リャッツァ、だろうか。
リャッツァのことは、見かけたことはあった。だが、お互いに若く、特にリャッツァはあまり門番の任に就いていなかったため、出会って言葉を交わしたのは何年も勤めてからだった。
リャッツァはトドマリの中でも、クジャクの一族だった。彼は真面目で、思慮深く――悪く言えばひねくれもので、全てを疑ってかかる――その性格のためだろう、物知りだった。美しい飾り羽をもち、幻術を得意とした。それゆえ、門番の任に就く前に魔法騎士としての腕を磨いていたという。だから余計に門番を務める機会が少なかったのだ。
リャッツァは地上についてもよく知っていた。
空には、マナが濃いし生物がいるのだから、もちろん悪魔も存在する。しかし、天使族もいる上、大魔法を使いやすい環境だ。早期に討伐されることが常であった。
それが、地上ではそうはいかないという。
空の国を侵略するような愚か者はいないだろう、私がそう言ったときにリャッツァは語ってくれた。
「考えることのできるヒトならば、そうでしょう。しかし、悪魔に取り憑かれればそうはいきません。
実感が沸かないでしょうが、空より遥かに少なく、また偏りのあるマナバランスの中、天使族もおらず大魔法も使いにくい、そんな地上で悪魔を討伐するのは、酷く困難なのですよ。
そのくせ、空には空人と天使くらいしか種族がないというのに、地上ときたらエルフにヒューマン、小人にミユにディルに…。我ら空人の国には、全ての王たるフェニックスが御座します。しかし、地上の種族には、全ての王という存在がないのですよ。混沌とするのも無理はありません」
なんと生きにくい世界に、地上の種族は生きているのか。私はそう思った。きっと表情にも現れていたのだろう。リャッツァはそれから何も言わなかった。
それが最初だった。
「全ての種族が空人のようになればいい、クレィニァ様はそう思いましたか?」
次に会った時、リャッツァはそうたずねてきた。
思わなかったといえば嘘だ。だが、例え空人だけになったとしても、全てが解決するだろうか。いや、そもそもそのようなことはありえないのだ、もし、と考えるだけ無駄である。その上、実際にそれが可能だとして、その道を選ぶかと言われれば私は選ばないだろう。ほかの種族の生き方を否定する権利など、誰にもありはしないのだ。生きにくいまま生きたいと思うものなどいないはずだろう。違う結論とはいえ、考え、歴史を重ねた結果が今である以上、それを否定することはできない。出来るとすれば、また歴史を重ねて変化を求めることだ。
私のその意見を聞き、リャッツァはさらに地上のことを話した。
悪魔とは、ヒトの心の、憎悪や嫉妬、憤怒、悲哀などがマナに伝わり集合したものである。天使族と近しく、フェニックスから知識を賜る我ら空人にとって、それは常識であった。
だが、地上ではそうでないという。
曖昧に、悪魔は倒すべきもの、とされているのが一般的なのだと。
地上の常識に、私は衝撃を受けた。悪魔を倒すのが困難である上、どの悪魔を倒すべきか、放置できないのかと、判断せずに討伐するとは、なんと非効率な。
悪魔とはつまり、元はヒトの心なのだ。悪魔はそれと同じように、とても曖昧なもので、単に憎むべきもの、倒すべきもの、とは言い切れない。集合して意思をもった”悪魔 ”の中には、例えば臆病なものもいる。過保護な性格のものもいる。性格は極端な場合が多いが、あまり害のないものもいるのだ。
私個人の考えだが、肉体を持たないマナの集合体であり心から生まれ意思を持ったもの、すなわち悪魔は、一体どれほど私たちと違うというのだろうか。
現に、使い魔というものもいる。それは、性質は悪魔と同じものだが、ヒトと契約をして、精霊使いにとっての精霊のように、力を分け合うという。厳密に言えばもちろん使い魔と精霊は違うが、ここでは割愛する。
つまり、使い魔を含めて悪魔は、ただ単に私たちの敵であるわけではないのだ。
その常識が地上では通用しない。
それほど、悪魔に対して余裕がないということだろうか。
リャッツァが言うには、悪魔を憎むものも多いという。なんと愚かなことか。憎しみは悪魔をさらに悪質で強力なものにするだけだ。
こうしてリャッツァと話した私は、地上のものに正しい知識が必要だと思うようになった。
「地上では魔法が使いにくいのです。だから、天使族が悪魔をモンスターとするのです。そうすれば、爪でも倒すことができます」
知識としては知っていた。悪魔自体は魔法で倒すしかないのだ。空ではそれがほぼ常に可能だが、地上ではそうはいかないらしい。天使族は悪魔を物に込め、モンスターとする。それを地上の者が倒すのだ。
「冒険者という、悪魔を倒す者、という職業があるのですよ。ディル族の者が広めたそうですが」
リャッツァは本当に物知りだ。リャッツァのおかげで私は冒険者を知った。その数が決して多くないことも。
なんとまあ…地上は大変だ。
その思いとともに私の中に生まれたもうひとつの思いが、苦く広がっていった。
「私たちはその現実を知っているというのに、空の上で平和に過ごしているのだな」
「私はその現実を知りながら、ここで門番の任を果たす心づもりです」
私もリャッツァも皮肉っぽくそう言った。
リャッツァはトドマリのクジャク一族の中でも上位の者であった。幻術も操るエリートだ。門番として、トドマリの国の守護魔法使いとして、周囲の期待に応えている。リャッツァはすでに、国に必要な者になっていた。
私は違う。
私はまだ、今ならまだ、自由にできる。
私のすべきことは、果たして、空の上でスザク一族としてこのまま生きていくことなのか?この現実を知ってしまった今、私にそれができるのか?そうやって私は、私として生きていくことができるのか?
随分と考えた。降りれば、もう戻れないだろう。一族から名前は消され、位を名乗ることは二度となく、そしてきっと、スザクの姿では地上で過ごせないから、ヒューマンやエルフに近い姿を保たなければならないだろう――幸い、このときすでに無機物の簡単な変身術ならば扱えた。
私は密かに、リャッツァにもバレるまでは内緒で、変身術を学んだ。地上の国でヒューマンやエルフ、小人の商人を見つけては、彼らを観察した。高価な医学書をヒューマンと物々交換した。もちろんその前にリャッツァからヒトの言語をある程度学んだ。だが結局、医学書はほぼ絵本となった…図は役に立った。
そうして数十年か過ぎた。
変身術とはなんと難しいものよ。
どうにかそれらしき姿に変身し、かつ、スザクの姿も取り戻せるように技術を身につけた。地上でスザクの姿に戻ることなど無いかもしれないが、生まれたこの身体が、朱の翼が、風に流れる飾り尾羽や、鉤爪や、私の炎と風が、永遠に失われてしまうことは、ある意味死のようだと感じていた。国を離れ一族から名前が消えても、その姿だけは手放せない。
リャッツァにも変身術を見てもらった。やはり、形はヒューマンなどに似ていたがどう見てもそれとは違うものであるとの意見だった。
「髪」はスザクの朱一色で長く、目はスザクのそれだった。変身術を身につけたその頃は、「服」という概念が私にはいまいち分からず、スザクの羽を纏うような格好となった。生活で必要らしい「指」は注意深く観察し力を注いだため上手くいった。まあ少し長いかも知れない。「口」や「鼻」は…とりあえず形は真似たが、「歯」がなんだか違うと言われて直した。
全体的にヒューマンやエルフはスザクより小さい。私くらいのスザクならば、ヒューマンと小人を一人ずつ背に乗せることができる。
その分、小さくならねばならない。何も考えずに変身すると、どうも大きすぎる…東の巨人族のようだ。
どうにか、身長は170センチほどに抑えた(170センチ、というのは後に出会ったココルネに言われた)。世界の背が高く見えて、なんとも不思議な気持ちになった。
変身前後で体の大きさを変えるのは難しいのだが――なにしろ幻術と違って本当に変化しているから、内部も全て小さくしなければならないし、小さくなった部分の魔力を失ってしまうと戻れなくなる可能性があると言われているためその魔力を何かに保存しておく必要がある――これもまた地上の、ディル族の旅の者と物々交換し、魔力を留めておくという不思議なアイテムを手に入れた。
高価なもので、本来は値がつけられないほどだが、旅の者には不要のものであり、マナの石200個と、私の羽2本で交換してもらった。当然だが抜いたのではない。換羽があれば差し上げようと約束したところ、旅の者は一月ほど地上の国へ滞在していたので、その間に抜けた2本を差し上げたのだ。
なにが珍しいのか分からないが、たいそう感謝された。抜けた羽を手に恥ずかしげもなく喜ばれ感謝されたので、非常に複雑な気持ちであった――ヒューマンやディルだって、自分の艶やかな自慢の髪とはいえ抜けたものを「欲しい」と言われ、あげて喜ばれ感謝されたら、私とおなじ気持ちになるのではなかろうか。そうであると信じたい。
話がそれてしまった。
言葉については、学ぶことは苦ではなかったが、変身してそれを発音し実際に用いるとなると話は違った。そもそも発音の方法が違うのだ。発音するための身体の構造も違う。ここでまた医学絵本を見直した。同時に空人の「医者」にも教えを乞うた――以前から教授してもらっていたが、再び訪ねた。二度とスザクの声で唄えなくなるなど、絶望でしかない。元の姿に戻れなくなることだけは避けたかった。
私はそうして準備を進めていった。
「クレィニァ様は、地上の者がお好きですか?」
リャッツァがあるときたずねた。
まだトドマリの地上の国でしか、地上の者と関わったことはない。だが私は頷く。
「どちらかといえばな」
「空の者たちは?」
「どういう意味だ、リャッツァ?」
空と地を天秤にかけるような問に、私は聞き返す。
リャッツァはぱちっと瞬く。
「ああ、違うのです。どちらのほうが大切かなどという愚問ではありません。ただ、クレィニァ様がどちらの姿も失わないまま変身術を身につけていく姿を拝見し、その大きな心に感嘆し、それを確認したかったためについ質問したのです」
リャッツァからの憧れと尊敬を感じ取り、私は妙な気持ちになった。
「私は大して考えていない。ただ…こうすべきだと思ったからしているだけだ。リャッツァ、そなたの言うような大きな心がどうこうではないのだよ」
リャッツァは何も言わなかった。彼のその無言が、それでいいのです、という肯定のように思えた。
地上の国で私は勉強を続け、リャッツァや「医者」や地上の商人から学んだ。
いよいよ私は一族を離れることにした。王に心を全て明かし、許された。
王は空人の自由を奪うものではなく、自由を助ける存在であるのだ。私が私の心に従っている限り、王は私を止めない。故に、私の一族も私を止めることはできなかった。心から礼を述べ、止めることのできない仲間たちに別れを告げた。
そして私の真名は変わった。位はなくなり、ただのスザク・クレィアシゥナとなった。
最後に私のスザクの姿を見たのはリャッツァであった。これは、私が以前から心に決めていたことだ。空人の国で、最後に私の姿を見る者はリャッツァである、と。
「発つのですね、クレィニァ様」
「ああ。リャッツァ、私にもう位はないのだよ。様、などとよばなくて構わない」
「私が貴女をクレィニァ様とお呼びするのは、貴女の位のためではありません」
リャッツァはそう言い切った。
「私はこの国の門番として、我らが国を、民を守る任に誇りを持ち全うします。貴女様もどうか、貴女様のまま、気高く、強く、生を全うなさって下さい」
ああ、変わったな――リャッツァが以前、「その現実を知りながらここで門番をする」と皮肉っぽく言ったことを思い出した。その彼は今、誇りをもって門番という任にあたっている。
「リャッツァ、そなたがいれば空人の国は安泰だろう。私は安心して私のすべきことを成すよ。どうか貴方も、貴方のままで」
「…私は、変わるでしょう」
リャッツァは言った。不思議な寂しさが含まれていた。
「ですが、私の軸は変わりません」
私は思わず微笑む。
「私も変わるだろう。良いほうにな」
リャッツァも微笑んだ。
「信じております」
「ああ。ではな、リャッツァ」
私は彼らから学んだ変身術で姿を変えた。
「クレィニァ様、足が鉤爪になっていますよ」
「む…油断した」
どうにか直して、私はリャッツァに確認してもらう。くるくる回るような動作になり、我ながら不審だったと後に思った。
「大丈夫そうですよ」
「そうか。よし」
私はリャッツァに向き直った。
「ではな、リャッツァ。世話になった」
「私の方こそ。クレィニァ様」
リャッツァはどこまでも誇り高き空人であった。
「ご無事とご活躍をお祈り申し上げます」
私は頷いて、ヒトの姿で歩き、リャッツァの前から去った。
それから二度と、私が故郷に戻ることはなかった。
ドマール族のココルネと出会ったのは、故郷を出てすぐのことであった。
私はつくづく、出逢いに恵まれている。
「クレィニァとトドマリの門番」fin.