カエルとLと奈落の賢者
お前は自分の望むものなら、
何にでもなることができる。
そして常に、
人であり続けることを忘れてはならない。
―――聖剣伝説LEGEND OF MANA 七賢人・奈落の主 オールボン
*
カエルが蝶々を食べてしまったから殺した。
いつだったか覚えていない。少なくとも、カエルが蝶々を食べることを知らなかった頃だ。
友人たちと一緒に、虫取りにいった。
近くの公園で、モンシロチョウだったろうか、捕まえて、鮮やかな緑色の、星型の虫取りかごに入れた。
カエルも見つけた。緑色の…ヒキガエルか、アマガエルかわからないが、トノサマガエルではなかったはず。
蝶とカエルを捕まえて、私たちは満足して、私の家に戻った。
駐車場は白っぽいコンクリートで、タイヤが乗るところだったか、そのへんが、石を敷き詰めたようになっている。灰色のコンクリートに落書きできる、丸っぽい白い石だ。
車の置いていない駐車場で、友人たちと座り込んだ。捕まえたかわいい蝶やカエルを見るのだ。虫取りかごを白っぽいコンクリートに置いて、みんなで囲んだ。
すると、カエルが蝶を食べようとした。
私たちは、少なくとも私はどきっとして、慌てた。
「あ、あ」
かごを開けるのでは間に合わない。蝶は羽を畳めば細い隙間も通るから、かごの隙間からどうにか出ないかと思ったが、それは無理だった。
カエルが食べてしまわないようにカゴを揺らしてもだめだった。
一回、べろりん、二回、べろりん、ばくっ。
「あっ」
むしゃむしゃと、カエルは蝶の羽を口からはみ出させたまま、それを口の中に収めようとしていた。
私たちはぽかんとしていたと思う。
なんで食べちゃったのかも分からない。
でも、カエルが蝶を食べちゃった。皆それを見ていた。
「食べちゃった」
「どうしよう」
「どうする?」
「どうしよう」
みんなで頭を絞った。幼い頭で考えた。
次の言葉を言ったのが私だったのか覚えていない。正確な言い回しも覚えていない。でも、言ったのは、私だったような気がする。
「殺そっか」
その提案は、すんなり可決された。どうしてだろう、分からない。拒否する理由も、同意する理由もなくて、ただ、提案されたから頷いたのかもしれない。
だけど皆、駐車場の白い石を手に、殺人(殺蝶?)カエルのいるカゴの周りで構えた。
カゴを開けると、もちろんカエルは逃げ出そうとした。
「あ、逃げる!」
皆の輪から飛び出そうとしたのを、慌てて石を持った手が追う。
こつん、こつん。
コンクリートを、狙いを外した石が打つ。
それも数回しか続かなかった。
誰かの石でカエルは潰された。
私たちは、しばらく、コンコン、コンコンと、コンクリートと白い石でカエルだったそれを潰していった。
今なら、「グロイ」という言葉を知っているが、当時はその言葉も、概念も、持っていなかったし、なによりその流れは当然だった。
特に何も思わずに、遊びに熱中するように、コンコンコンコン。
やがて、母親が帰ってきた。玄関に行こうとすると、どうしても近くを通るのだ。
「なにやってるの?」
私たちはコンコンしながら、座ったまま見上げた。
多分、私はいつも通りに、どんぐりを見つけたことを報告するかのように、教えてあげた。
「カエル、蝶々を食べちゃったから殺したの」
「なにやってるの!!」
母親のまとう空気が一変した。怒られた。本気で怒られた。
私は怖くて泣いた。なんて言って怒られたかも覚えていない。そもそも何か言われただろうか。思い当たらないし、理由を説明された記憶もなく、今持っている言葉で母親のことを言い表すのなら「理不尽だ」「怒るのなら理由くらい教えてよ」。
*
大学生も終えた今になって、こういう昔のことをよく思い出す。
本当に知らなかった。カエルが蝶々を食べるなんて。
どうして怒られたのだろう。
どうして蝶々を食べちゃったカエルを、殺してはいけなかったのだろう。
命を裁きにかけるような真似は、私――ひとりの人間、もしくはひとつの命――がすることなど許されない、ということだったのか。
許されないだなんて、一体誰が、なにが決めたのだろう。残念ながら、――残念、だろうか――私はそう簡単に納得してしまう「素直さ」や「愚かさ」やそんなものだけで構築された心はもっていない。
私は中学校の頃から、理科は好きだった。思えば小学校の頃から、星や宇宙の写真が好きだった。。
ブラックホールや、ビッグバンや、ワームホールや、反重力物質や、F=maや、同時性の不一致や、そんなものが好きだった。
宇宙は複数あるという考えもある。物理はもはや哲学だと感じた。
広く、途方もなくて、そうして考えることしか、人間にはできないだろう。
この宇宙の中に、規則なんてあるのだろうか。
考えるほどに、全ての物事は、過程であり、結果である、ただそれだけに思えてくる。
実は分からないことのほうが多いこの現実で、何が良くて何がいけないのかなんて、それこそ個人が個人に決め付けることなんて、出来やしないのでは?
いくら強制されても、納得して、身に付かなければ、自分のことにはならないのだと、これまで生きてきて思う。
もちろん母は、親として、子供の残酷な行為を怒るのは当然だったんだろうと思う。自分の子供には、優しい子に育ってほしいだろう。
今の私には、そういう思いが当然、と思えてしまう。理由はない。これが、怒られた理由だろうか――”理由というより、当然の思いだった”から。
今の私には、理由はないが、なんとなく、あの行為はいけないことだったような気がしてしまう。私が理由もなくそう感じるのは、強く怒られたからだろうか?理由もなく怒られて、心に刻まれたから、理由もなくそう感じるのだろうか?
そうやって、理由はないけどなんとなく、親から子へ教えが繋がっていくのだろうか?
でも納得はしなかった。だって、カエルが蝶々を食べるなんて、知らなかったんだ。
それを母親に言うと、
「そんなの当たり前でしょ!」
と言われた。そう記憶している。
その言葉が私は嫌いだ。幼心に、「当たり前なの??」とかなり戸惑ったのを覚えている。
母親だって、思わず、感情に任せて言ってしまったのだろうが、そんなこと幼子に分かるはずもない。
戸惑って、「カエルが蝶々を食べちゃうのは、当たり前なんだ」と、自分が違っていたこととして、常識を記憶と心に刻み込んだ。
だけどもやもやした。納得していないのだから。私は理由が欲しかった。じゃないと理不尽だと思えてしまう。理由もなく怒られるのは嫌いだ。
ところで、大学時代にカエルの出来事を思い出して、気がついたことがある。もやっとする出来事は、「怒られたこと」自体と「当たり前でしょ!」という言葉のふたつに分けられるのだ。気づくのが遅くなった言い訳をすると、それまでは思い出すこともなかった出来事で、考えもしなかったせいでもある。
そこで、分けて考えてみる。
「そんなの当たり前でしょ!」のほうは、まだ、もやっとしている。もし私が母親になって、子供に同じことを言ってしまっても、ずっともやっとすると思う。もうこれは仕方ないかもしれない。考え方を押し付けられて「これが普通であって正しいことなんだ、お前は間違っている」と言われているも同然だ。否定されて嬉しい人なんて、いるのだろうか。少なくとも私は嫌だった。
一方で、「怒られたことがすっきりしない」気持ちについては、かなりすっきりさせてくれる言葉に、大学時代に出会った。
その言葉とは、あるゲームの中の、賢者の言葉だ。聞かなくても物語は進むし、話しかけなければ聞けない台詞だ。
奈落の賢者は、言った。
お前は自分の望むものなら、何にでもなることができる。そして常に、人であり続けることを忘れてはならない。
宇宙のことや、個人に強制できないこと、そういう考え方全てに、逆らわない言葉だった。だから、すっ、と私の中に馴染んだ。
なんにでもなることができる。私は、本当にそうなりたいと思えば、なんにでもなることができる。
人は心をもっているから人だと思う。だけど、本当に望めば悪魔にだってなれる。でも私は感情を忘れていない。だからならない、なれない。ならない。
人を殺してはいけません。
物を盗んではいけません。
悪口を言ってはいけません。
そんなのは、当然の社会のルールや、人としてのモラルだ。なによりも、私は、それによって誰かが傷つくことを知っている。綺麗事に聞こえるのでさらに追加して言うと、私はそれによって自己嫌悪に陥る。ともかく、私には、心があるのだ。改めて言うと少し気持ち悪いがそういうことだ。心がある私は、人だ。
母が怒ったことは、つまり、人であることを忘れてはならない、ということだったのだろうか。その思想に繋がっているのかもしれない。
カエルを殺して何も感じなかった私だが、今ではその行為が残酷だと思う。この変化は、私にとってもカエルにとっても社会にとっても、望ましい変化なのではないかと思う。
おや、なんとなく納得してハッピーエンドになりそうだ。しかし、今の私が納得できても、幼子を納得させるのは難しい理由のように思う。現に今まで納得していなかったのだから。怒られた理由はやはり、抽象的なものだ。この抽象的なものは、経験がなければ分からないものではないだろうか。
いつかあの時の母の二の舞を踏みそうだ。つい、「当たり前でしょ!」と言ってしまうかもしれない。もう少しだけでも、具体的にならないだろうか。ということで、もう一歩踏み込んでみようと思う。
あの時はどう言語化すれば良かったのだろう。
カエルが蝶々を食べるのだと知らなかった幼子に、なんて言えば良かったのだろう。
「当たり前」はともかく、怒られたことで、それが何か良くないことだと学んだのは確かだ。
「なにやってるの!!」の言葉と、一変した母親の空気。あれだけで、十分だったように思う。実際、「なにやってるの!!」と「当たり前でしょ!」以外、覚えていないのだから。そして、そんなの当たり前でしょ、という言葉は、余計だったと思う。この言葉は自分が正しいと信じきっている考えの理由や感情を言語化出来ないときに、とても便利な言葉だ。でも、できるだけ使いたくないものだ。
他に言葉がなかったのか、少し考えてみようと思う。
「カエルも生きているんだよ」「カエルも蝶も、あなたも、命をもっているんだよ」「・・・」
「蝶々を食べちゃったカエルは、殺さなきゃいけないの?」
「だって蝶々が可哀想だから」
「カエルはかわいそうじゃないの?」
「カエルは蝶々を食べちゃった悪いカエルだから」
「蝶々を食べちゃったことは、いけないこと?」
「うん」
きっと、うん、と、自信を持って頷くだろう。それ以外の回答も考えたが、「うん」が一番しっくりくる。実際に惨殺したのだから。
この会話を想像したときに、あの時幼子たちにとって蝶々を食べてしまったことは絶対悪だったのだろう、と感じた。
絶対悪を滅ぼしているのだから、自分たちが何か感じる必要はないのだ。
母親に怒られるまでは、それが正しかった。
「でも、カエルも死んじゃったね」
こう言えば、少しは何か感じてくれるだろうか。そうであってほしいが、真っ先に私の想像の幼子がくれた回答はこうだ。
「だって、蝶々食べちゃったから」
難しいものだ。
叱る、というのはかなり良い方法だったのかもしれない。分からないけれど、いけないことだということは幼子でも分かったのだから。
もしこの幼子が、それをいけないことだと感じないまま成長し、むしろ悪いカエルを殺したことが正義となって、そして世間に興味をもって、デスノートを手に入れたら、あとは頭脳さえあればキラが出来上がりそうだ――ご存知だろうか、DEATH NOTEという漫画を。
主人公である青年、「キラ」は、犯罪者たちを死神によって与えられた力で次々と殺していく。警察と、世界的探偵Lは、キラを大量殺人鬼として捕まえようとする。キラのしたことによって犯罪率は低下し、信者もできるほど。しかしそれでも、警察も探偵たちも、キラを捕まえようとする。なぜならキラは、”殺人を犯した”からだ。
何がどうで理由がなんでも、殺しは、殺しだった。
今、私がどうにか、人殺しやその他いろいろしないでここまで来たのは、臆病な性格と、幼少期に親が作り上げた思想の土台のおかげだろうか。
カエルを殺したあの時に、私は賢者の言葉に近いものを貰っていた。納得しないまま大学生にまでなり、奈落の賢者の言葉に出会って、思い出し、考え直した。もう一度、それも分かりやすい賢者の言葉をもらう機会があって良かった。
私はここまできてようやく納得し、今は、こう思う。
カエルをあの場で殺す必要はなかった。
蝶を食べたカエル。
カエルは生きていた。
誰も、許すとも、許さないとも決めていない。
私が殺すか、殺さないか、だ。
だけど――殺してくれなんて、誰も、蝶々も、望まなかっただろうに。
残酷なのか、していいのか悪いのか、決めるのは私だけだった。分からなかったあの時、やってしまってから学んだ。
今はもう怒られたからではなく、私がそう望むから、心や感情をもつ人であるから、石でカエルを潰すようなことはしない。
社会の規則があるから、というのは2番目の理由だ。私が望むことが1番の理由になる。
蝶にとってもカエルにとっても、なんの足しにもならないだろうが、蝶とカエルが私の記憶に残ったことは事実だ。
「―――人であり続けることを忘れてはならない。」
そうでありたい。
2014.末頃
以前記憶の限りノンフィクション。
あまり上手に書けていない。
修正可能性あり。